あり、歴史の局面へ積極的に働きかけようとする時代の典型であるという文学の世界の現実で、広汎な読者の生活に結ばれてゆくものであろうとした。
 この文学の動きの方向で、日本の近代文学の自我は初めて複合的な集団的な歴史的に動く自我へ成長発展する可能を示されたのであった。ところが、日本独特のせわしく迅い時代の推移は、十分その動きを成熟させないうち、その文学の方向をとざすこととなった。新しい文学そのものが自身の未熟さを脱し切れないまま発育の方向をかえなければならなくなったのみならず、その文学の動きが継続していた十年の間、依然旧態にとどまって、集約的自我に対抗し、個的な自我を純文学の名において固守して来た作家たちも、本質的展開のないまま、更に一層萎靡した自我を抱いて、満州事変の開始された日本の現実の中につき放たれたのであった。
 当時の文学的混乱がどんなに激しかったかは、今更くりかえす必要もなく、私たちの記憶に新しいことである。
 民衆の文学という声があげられたのは今日から凡そ三年ばかり前のことだが、その呼び声は、主として従来からの所謂純文学作家・評論家たち、即ち新しい文学が小市民的な個的な自我を
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