ぐそれが作品化されてゆくというのではなく、そのようにして変化してゆく生活の感情が、日本の文学の全歴史とそれぞれの作家の文学的経歴とに多岐多様な作用を及ぼして行って、その結果として文学は種々の変化と飛躍とを示してゆくわけなのである。
「炭」という一字に対する今日の感覚の変化からみても、作家が一般国民としての生活感情のうちに自身を織りこませざるを得なくなって来ていて、従来のように知識人的、或は職業人的ポーズの枠内に止っていられなくなっている現実に偽りはないと思う。小市民風な小さい個人的主観的解決は、炭の問題に対して力をもっていないと同じく、社会的現実の矛盾の全般に対して今日はその力のもつ限界を明かにされているのである。文学は、小市民的な身辺小説の歴史的な塒《ねぐら》から、よしや今宵の枝のありかを知らないでも、既に飛び立たざるを得なくなって来ている。
 国民文学の声々は、それらの飛び立った作家たちが、群をはなれぬよう心をつかいつつ而もその群の範囲ではめいめいの方向で羽ばたいている、その歴史的な物音といえるのではあるまいか。
 国民文学というものは、その字が語っているとおり、国民の文学であり、国民の文学であるということはとりも直さず国民生活の日々に経つつ展開されてゆく生活の文学であるという本質は、一見全く明瞭のように思える。それにもかかわらず、国民文学という題目をかかげて作家たちが語るとき、その感想の大部分はどうして、そのわかりやすく自然な文学の本質に立って自身の成長を願う言葉としてあらわれず、何か文学の外の力、例えば政治への協力への歩み出しという面の強調に熱心なのだろう。
 政治と文学という二つの質の異ったものが真に協力し得る場面は、国民の現実における生活の内にしかあるまい。それも、あなたはそちらから、私はこちらからという工合に国民生活の内部で政治と文学とが両方から歩みよるというような形式的な関係ではなく、国民の一人一人の生活の運転の血肉として、その生活意欲の表現としての政治と文学とが各人の中に相互的統一におかれたとき、言葉の偽りない意味での政治と文学との協力がいわれるのだと思う。そして、このことはやさしいことではない。将来の永い永い見とおしに立って、国民の政治的成長への期待とともにのみ語り得るのである。それ迄の歴史的な幾波瀾を凌いだ社会史的成長の彼方に期待されることなの
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