文字のある紙片
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)抑々《そもそも》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九二四年九月〕
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「あの事があってから、もう三ヵ月になる。けれども、私の心持は当時にくらべてちょっとも明るくなっていない。それどころか、却って陰鬱さを増しているとさえ云える有様だ。今日のような天気の時には、特に堪らない。風も吹かず、日光も照らず、どんより薄ぐもりの空から、蒸暑い熱気がじわじわ迫って来る処に凝っと坐り、朝から晩まで同じ気持に捕えられていると、自分と云うものの肉体的の存在が疑わしいようになる――活きて、動いて、笑い、憤りしていた一人の女性として在った自分の体が消滅し、この救われ難い心持の凝固だけが、例えば澱んだ重い瓦斯体のように空中に浮んでいそうな気がするのだ。事実そうなって仕舞わないから困る。さっきのように、まつが
『奥様、番町のお使いはおひるからに致しましょうか』
と云ってくれば、私は、一種の習慣と女性的本性の発露で、すばやく奥様らしくなり俄に現世的になって、
『お前の都合のいい
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