、というよりもむしろ配列した頭脳的な作品であった。が、「抒情歌」はその反対に、科学を追いつめて淋しくなった人間の心が、その逆の霊魂のことに慕いよる、というモティーヴによってかかれている。これは「水晶幻想」の作者として一つのリアクションを示した作品であった。「水晶幻想」と「抒情歌」の間にあるこの性格は折から一九三一―二年のプロレタリア文学運動の高まりとその弾圧を背景として、ただこの作家ひとりのモティーヴが、あれから、これへ、とびうつったこととしてだけは見られない。文学史的な客観において、この二作は、一つの研究の対象ともなり得る。当時のわたしが「抒情歌」の異常な心霊ごのみに、同感できなかったのは、あながち、わたしのおさなさと素朴な世界観、文学からだけのことでなかった。こんにち、川端康成が、ファッシズムに反対する立場をあきらかにしていることは、すべての人の知るとおりである。
神秘主義がファッシズムとの間にもっている危険な関係は、ナチスの美学がその後あらわにしたように、現実からの逃避や、主観的観念性、幻想の壤土となるからである。現実での暴虐、流血を神秘主義に色どって、その強烈さで、理性を麻痺させることは、ヒトラーの方式であった。その拙劣な真似に、日本の軍部の方式があった。「暁に祈る」が、その名称そのもので実証した。
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黄色い特派員
――里村欣三の満蒙通信――
改造社が、里村欣三を満蒙特派員として派遣した。二月号『改造』に「戦乱の満蒙から」という通信をよみ、強く一つのことを感じた。それは、筆者里村欣三が何たる民主主義者[#「民主主義者」に傍点]であろうかという事実とブルジョア・ジャーナリズムはこういう特派員を選ぶに何とうかつであろうかということだ。この文学的表現をもった記事から=ブルジョア報告文学から、われわれは何を知るか? 何も知ることはできない。ブルジョア新聞に書けるだけのことがブルジョア新聞記事のイデオロギー的基礎の上に立って書かれているにすぎない。1、2、と読み進むにつれ、映画のクローズ・アップのように一連の文句が目の前に浮び上った。労農大衆党の黄色い卑屈なスローガン「戦線拡大反対」という文句だ。
作者が大いに視察記録しようと出かけた意気込みは、ほのかに分る。が、いざ実際、組織強固な帝国主義侵略軍の
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