んで、どうつかまれているかということが眼目だ。徳永が国際的なプロレタリア作家だとすれば、それはただ「太陽のない街」がドイツ語に訳されたということではない。一つの工場内の大衆の経験を世界プロレタリアートの立場から、日本における一つの確固たる具体性としてとりあげ得るところにある。
二篇の小説で、徳永は具体性というものの評価をどこかで間違えた。この小説を読んで、近代企業としての一印刷工場の輪廓ははっきり浮かんで来ない。いわばその工場を周囲の人家と区切っているが、はっきり印象づけられないと同時に、外部の情勢が工場内部と交錯するものとしてちっともとらえられていない。書こうとして失敗したのではない。始めっから全然書かれようとしていない。工場のこまかい日々の事実が、せっぱつまった資本主義経済の恐慌をひしひしと思わせるような迫力では書かれていないのだ。
それに徳永はこの小説で、これまでより一層すらすら読める書きぶりを心がけている。ひどくなめらかな調子に一日一日とうつる工場内の具体的な事実を次から次へと読ます。なるほどプロレタリア文学にはブルジョア文学が習慣づけて来たような作為的なヤマはいらない。然し、共通の利害で密集した大衆の力が現実に高まって、従って主題がある程度まで深化されたモメントというものはあるわけだろう。
われわれは、こまかい具体的情景を書いて行かなければならない。だが、ただ職場でこういった、こんなことがあったと、現象だけを追って書くとすれば、それはほとんど場面だけはプロレタリア文学で方法は自然主義であるとさえいえる。表面にあらわれた個々の現象の底をつらぬく経済的政治的な要因がプロレタリアの立場からしっかりつかまえられ、あらゆる現象がいきいきと動く相互的関係の発展のうちにあつかわれてこそ、始めてプロレタリア文学としての強靭さと、弾力と、美とをもってくる。率直にいって、徳永直のこの二つの小説はしまり[#「しまり」に傍点]がない。主題を、きびしいプロレタリア的観点からそしゃく[#「そしゃく」に傍点]しぬいたという手ごわさがない。むしろ、文章に気をつかっているのが分る。すらすらと読める文章を書こうとして、土台をがっちり打ちこむことをおるすにし、その文章の上でさえ、大衆のかたまった力、熱、メリハリを再現することに失敗している。
この正月、徳永直が何かで菊池寛その他ブルジョ
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