り知らないが、思惟の傾向の本質では全く一体二面であるし、或る意味の組織的生産の印象を与えている。二人の筆者は、マルクスが「経済学批判序説」の終りで云っている文化に対する一句を同じく引用し、等しくその上に立場を求めて、この数年来世界文芸批評の分野に立ちあらわれている科学的批評の態度を否定している。古典の生れた環境の解明だけでは新しく文化を再生せしめ、「自己を変貌せしめる」役には立たず、それを憧れ、信仰し、永遠の青春として味到してはじめて血肉となるのであるから、例えば「日本的なるもの」の解釈に当って、その問題の発生を社会的な原因の面からだけ見るような一部の批評家、戸坂潤、岡邦雄の如きは反動であるという意見なのである。
 二つの論文が、永遠の青春とか変貌とかいう用語や非難しようとする対象に於てまで完全に呼応した一致を保って批評の科学性を否定しているところは、読者に何を暗示するであろうか?
 もし、両者の間に些かの相違を見出そうとするならば、小林氏が「ごく常識的に考えても世間には芸術の仕事と科学の仕事との対立が見られる」各自その分野を守って仕事しているのに、或る批評家はその間をどっちつかずにい
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