範的性格とは取りもなおさず、僕等が眺める当の作品を原因とする憧憬の産物に他ならない」と解するか[#「解するか」に傍点]。そのような解し[#「解し」に傍点]かたが、小林秀雄氏の小さい一文の中でさえ、他の一方で主張されている実証的態度の主張との間にあからさまな自己撞着を示しているような誤りであることが自明であるからこそ、序説以下の「経済学批判」の方法が、今日の活ける古典として物を云うのである。
この二つの論文及び批評家伊藤整氏によって書かれた小説「幽鬼の町」(文芸)を読んで、今日文壇で批評家として通っている諸氏の精神的性格に、芸術家として第一歩的な自己省察の健康な弾力が喪失していることを痛感したのは、恐らく私一人ではなかろうと思う。
伊藤整氏の短い感想を折々読んで、氏は批評家が主観的に物を云う現代の常套的悪癖に犯されつつも、猶内部には「なんとか云わないではいられないもの」をもって、散漫ながら立っている文筆家であろうことと思っていた。「幽鬼の町」は、作者としてはダンテの神曲、地獄篇をひそかに脳裡に浮べて書かれたのかもしれないが、そこに地獄をも見据えて描き得る人間精神の踏んまえ、批判はなく
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