と歩を合わせようとしても、根本的な点で一致することは出来ない。文学的思想の価値は現実的価値ではない、象徴的価値だ」と云っている。「アクチュアルなものから永続的なものへの憧憬」であるとして、マルクスの「経済学批判序説」にある文句が引用されているのである。
読者の全部が「経済学批判」を読んでいるとは思われず、私も亦マルクス学者でないから知らないが、引用している文章――
「困難は、ギリシャ芸術及び史詩が或る社会的発達形態と結びついているのを理解することに在るのではない。困難は、それらが今も尚われらに芸術的享楽を与え、且つ或る点では規範として又及び難い模範として通るのを何と解するかにある」(マルクス、経済学批判序論)
だけについて見ても、ここで新しき文化の開花のための最も重要な鍵は、最後の一行、「及び難い模範として通るのを何と解するか[#「何と解するか」に傍点]にある」という箇処に意味深長に横えられていることがわかる。つまり、亀井氏のように文化再生のためにネロが必要であり、狂信者・専制者が必要であるという風に解するか[#「解するか」に傍点]、小林氏のように、「或る古典的作品が示す及びがたい規範的性格とは取りもなおさず、僕等が眺める当の作品を原因とする憧憬の産物に他ならない」と解するか[#「解するか」に傍点]。そのような解し[#「解し」に傍点]かたが、小林秀雄氏の小さい一文の中でさえ、他の一方で主張されている実証的態度の主張との間にあからさまな自己撞着を示しているような誤りであることが自明であるからこそ、序説以下の「経済学批判」の方法が、今日の活ける古典として物を云うのである。
この二つの論文及び批評家伊藤整氏によって書かれた小説「幽鬼の町」(文芸)を読んで、今日文壇で批評家として通っている諸氏の精神的性格に、芸術家として第一歩的な自己省察の健康な弾力が喪失していることを痛感したのは、恐らく私一人ではなかろうと思う。
伊藤整氏の短い感想を折々読んで、氏は批評家が主観的に物を云う現代の常套的悪癖に犯されつつも、猶内部には「なんとか云わないではいられないもの」をもって、散漫ながら立っている文筆家であろうことと思っていた。「幽鬼の町」は、作者としてはダンテの神曲、地獄篇をひそかに脳裡に浮べて書かれたのかもしれないが、そこに地獄をも見据えて描き得る人間精神の踏んまえ、批判はなく
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