文芸時評
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鬱金《うこん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二人|連弾《つれびき》で語っているところに、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+墨」、第3水準1−87−25]東綺譚
−−

        八月の稲妻

 読みたいと思う雑誌が手元にないので、それを買いがてら下町へ出た。町角と云わず、ふだんは似顔描きが佇んでいるようなところにまで女や男のひとたちが、鬱金《うこん》の布に朱でマルを印したものと赤糸とをもって立っていて女の通行人を見ると千人針をたのんでいる。出会い頭に、ああすみませんがと白縮のシャツの中僧さんにたのまれたりして、小一時間歩く間に私は四五度針をもった。私は何か一口に云いきれない苦しい心持で光る針に三遍赤糸をからめては小さいコブをこしらえて、お辞儀をしてかえした。外科的な専門の立場で云うと、千人針を体につけていて弾丸に当ると、弾丸の方は比較的たやすく抜き出すことが出来るが、小さい糸こぶをもった布切れがどうしても傷の奥ふかく食いこんでのこって生命のために危険なのだそうである。こうやって道行く人々をとらえてその千人針を懸命にこしらえている人々は、そういう事実を恐らくは知っていないであろう。知っているにしても、せめてはそれも心やりからで、出征してゆくものの無事息災を希う家族の気持がじかに迫って来て、縫うことを冷たく拒み得ないものがある。
 胸を圧される心持でバスにゆられてかえって来たら、私の住んでいる駅の方からバンザーイという沢山の人間の喉からしぼり出される絶叫が響いて来た。
 昨今はこういう日常の雰囲気である。『中央公論』と『改造』とが北支の問題をトピックとしているほか、トロツキーの「裏切られた革命」の翻訳を別冊附録としているのは、誰しも一応の注目をひかれることである。『改造』の附録の方の翻訳署名責任者として荒畑寒村氏が、最後に「訳者の言葉」を附し、この四六判二百九十余頁に亙るトロツキーの「絢爛たる文彩、迫撃砲の如き論調、山積せる材料、苛辣なる皮肉」が結局「どんなに善意に解釈しても、ソヴィエットの社会主義的進化の実状に対するトロツキーの思
次へ
全8ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング