放運動の道はジクザクだ。ぴったりその線に沿ってゆくプロレタリア芸術運動の道もジクザクだ。外にありようない。困難な歴史的使命をはたしてゆくうちに、誤謬がないとは決していえない。
ボルシェビキ作家にとって、大事なのは一つの誤謬をも犯さないということではない。犯した誤謬を、率直に認め、失敗の原因を根こそぎ詮索して、その経験をあらいざらい次の運動の中で発達のためのこやしにすることだ。
六月の『中央公論』に長谷川如是閑が文芸時評を書いている。プロレタリア文学についての意見の中で、取材、形式の固定化をあげている。そして、「プロレタリア作家生活がすすむにつれ、その芸術的空想の局限が見えて来るようだ」から、いわゆる政治小説から出て、モットほかのところへ種さがしにゆけと勧告してくれている。
大体その時評は、妙なものだった。マルキシズムの立場で書かれているわけなのだろうが、敗北主義で、政治と文学との見解は、ブルジョア・インテリゲンチアの宿痾《しゅくあ》、二元論だ。
しかし、言及されているプロレタリア文学の取材、様式の固定化という批判は、そのままとりあげよう。
けれども、われわれのところではその解釈と、発展を求めてゆく道の発見のしかたが、筆者とはまるで違う。まるで反対である。
大会は、作品が固定化した理由を、プロレタリア作家各人の日常が、まだ大衆のうちに入り切ってないからだ、大衆の現実が作者の現実となりきっていないからだとしている。
空想の欠如ではない。現実の欠如である。
そして、その欠点を清算するために、「ナップ」の作家は、土地をかえよう[#「土地をかえよう」に傍点]とはしない。そこから逃げ出そうとは考えない。なお一層プロレタリア・農民大衆の現実の中へ中へと、正しく踏み出した去年の道を発展させてゆくことで、克服しようとする意志をもっている。
「プロレタリアートの当面する課題が、文学の課題であるということは、プロレタリアートの当面する課題を文学の内容として具体化すること、即ちそれぞれの作品の主題として生き生きと生かすことである。
階級闘争の現実の正しい把握と、その表現との中に生かさねばならぬのである。過去のわれわれのこの問題に対する機械的理解すら生じた多くの誤謬を実践的に清算することによって、我々のこの任務を深めつつはたしてゆくであろう。これが作品におけるプロレタリア・リアリズムの確立への道である」(一九三一年度における日本プロレタリア作家同盟の活動方針書の中から)[#地付き]〔一九三一年七月〕
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「中央公論」
1931(昭和6)年7月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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