る。
 それらの作品は、ではどれも実にいきいきとした芸術的効果をおさめていただろうか? 大衆は、作品の中にほんとに俺たちの前衛を丸彫りに見出したか?
 公平に批判して、そうだとはいえない。変ではないか。作品の中に引用されているビラ一枚だって、偽《にせ》ものはないんだぞ。みんな、闘争の現場から貪慾に集められたものだ。ストライキの発端、過程、これにも、こしらえたところはない。
 だのに、なぜ書かれた小説はどれも面白いというわけに行かず、作中の人物は、大衆から「どれでも同じようだ。人間が書かれていない」といわれるようなものになったのか。
 第三回大会は、この点に力をこめて自己批判した。理由には勿論階級闘争の激化につれて加わる運動の非常な困難さがあげられた。一九三〇年は、かつて労農党華やかなりし頃とは別な世の中である。大衆は革命化している。が、ほんとに質のよい、永続的なプロレタリアートの運動は、一つのストライキ、一つの農民闘争の底に沈められている。その本体を把握し、ブルジョア官憲によって切りこまざかれる運動を全線の展望から理解し、しかも芸術品としてまとめることは、異常にむずかしい。
 しかし、理由は、もう一つある。それは一九三〇年のスローガン「文学のボルシェビキ化」「前衛の目をもって書く」ということを、やや機械的に、平ったくいえば、小説の種をストライキや農民闘争にとれば、前衛的だ、という風に解釈した誤りだ。
 芸術は生きものだから、それではうまくゆかない。
 革命的プロレタリアートの闘争の形の主な一つは現在の過程において例えばストライキだ。「ナップ」の作家はそれを芸術の中へとらえ、描かなければならない。階級の芸術としてそれは、当然である。が、ストライキを書いたからといって、それだけで、階級の芸術として直ぐ前衛的だとはいえない。
 その一つのストライキを貫いて、プロレタリアートが叫んでいることは何か。一つの叫びにこだまする全階級の声。その声がいわんとするものは何か。互に矛盾し合ういろいろなストライキの間の現象。プロレタリアートの心持などを徹して、描かれなければならないものはそれだ。主題である。単なる筋書ではない。
 つよい、熱い主題をはっきり掴み、それを切れば血の出る芸術品にするためには、作家が、一人や二人の前衛として知り合いをもっていて話をきくというだけでは足りない。更に更
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