のは作者の創作過程の内部へ及ぼす有機的な関係をもたなかった。自我が喪失されるとともに純文学は創作の内面的対象としての読者大衆ではなく、外面的な転身の足がかりとして読者を意識し、大衆生活を描くに不可欠な創作方法の探求はぬきに、作者の主観で、自己の作品の購読者としての読者を意識した。そのことで、具体的な人間群としての大衆は作品の中に生かされていないようになったとともに、自己の作品の世界に対する作家の人間的社会的な責任というものも無視されたものとなって来てしまっている。
 文学に人間が再生しなければならないとは昨今頻りにきく要求である。明日に向って人間の自己は、より成長し、より責任ある社会的な性格をもって文学に甦らなければならないのであるが、その目安をもって私たちが自己の再発見をなし得るための客観的な力として、現実に在るのは、批判の精神をおいて他に無い。
 文学がどんなに社会的のものになろうとも、創作の現実ではめいめい一人一人の人間の極めて具体的な綜合的な社会意識の内部から作品が生まれるものである限り、益々批判の精神の役割は重大になって来るばかりなのである。批判の精神の無私な努力だけが、世紀
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