いのである。
「さび」というものが、日本芸術の一つの大きい価値とされて来ているということに対して、アメリカ生れの日本青年はなかなかその内容を会得し難い。或る席で、「さび」の話が出た時、第二世である青年は、単純に、「さび」などという趣好は、西洋文明に比して日本の文明が貧困の文明であることの証拠にしかすぎない。竹の柱、茅の屋根など、日本が貧しいために伝統づけられた美的認識であると云った。居合わせた人々は、不愉快な面持で、精神的な問題だよ、と云った。東洋精神独特の美の感覚なのだから、とつよい語調で云った。それだけでは、益々理解が混雑する様子であった。封建時代の日本人がその社会生活から慣習づけられていた感情抑制の必要、美の内攻性及び日本の建築、家具什器の材料に木、紙、竹、土類を主要品とした過去の日本の風土的特徴等が、「さび」を語った場合とりあげられなければならないであろう。
仏教の思想、剣道の勘、いろいろなものが「さび」という感覚をつくりなしていたのであろうが、社会生活が変化している今日では、抑々《そもそも》その「さび」を主とする茶道が、関西にしても関東にしても大ブルジョアの間にだけ、嗜好さ
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