錬の結果が蓄積して、複合的な直覚が特定の範囲で発動し、肉体の動きまでを支配する、そういう意志的な要素を底流とした心理であるから、勘の内容は、反復され、努力されることの質に応じて具体的に相異があるし、変化もする。全く伝統的な勘という表現でさえ、抽象的にはあり得ないのである。例えば平山蘆江氏が自身の境地のなかで身につけている勘、それとは違うであろう菊池寛氏の勘。更に小林多喜二が持っていた勘は、前者が二様であっても大別一系列の中に包括し得る性質であるに反して、その本質を異にしていた。これは、誰にとっても極めて理解しやすい実例であると思う。
 今日ほど、文学の動揺が甚しかったことはなかった。文学に思想性を求める声は、どんなに今日の文学が思想を喪失し、剥奪された事情におかれているかを、あますところなく語っている。思想的な規準は失われたと一応思い込まれ、自身にそう云いきかせることによって、今日の人間の知性や良心に加えられている重圧に対する溌剌とした対抗力の眠りをさますのをおそれている形である。そして、多くの作家たちは、益々多くの人間的又は作家的な勘にたよってものを云うことが殖えている。自分の勘に対
前へ 次へ
全14ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング