者というものは、これまで日本の文化の国際的な発達との関係では、独特な立場におかれていた。国文学者にとって必要な古文書、典籍などは、主として皇室の図書館や貴族の秘蔵にかかっており、常人にはそれを目で見ることさえ容易でない有様である。佐佐木信綱博士が万葉集の仕事を完成した時、些かでも専門の知識をもっている人々が歎賞した第一のことは、その文献の蒐集が十分にされている点についてであった。そして、異口同音に云った。これは社会的・学者的声望に欠くるところない佐佐木博士にしてはじめて可能なことであると。
 先ず文献に関するこういう伝統的、社会的制約がある上に、これまでの国文学をやる人は、多く国文学の内にとじこもり、而も、非常に趣向的に閉じこもっておった。やっとこの数年、国文学の研究に当時の社会的背景が研究されなければならぬこと、ヨーロッパ文学の研究方法としてつかわれている科学的な方法が或る程度まで適用されて来た。ドイツの文芸学の方法は、ずっとおくれて昨今国文学研究の領野に入って来たことは周知のとおりである。
 過去の国文学者は、自身の生活態度にも進歩的な意味での社会性を余り持たなかったため、例えば、保田与重郎氏が、先頃和泉式部論をかいて、藤岡博士の和泉式部観に反対し、結局は筆者自身、このよさが分らないものにこのよさは分らない、というような主観的な美文的叙述をしていても、恐らく本当の国文学の研究者と云われている人は、それに対してペンを執ることなど思いもしていないであろう。国文学研究の正道に立って、古典が文学外の力に利用されることに疑義を挾むぐらい、真に気魄をもって国文学を研究する人は尠い。明治以来今日迄のヨーロッパ文学研究の盛んなのとその影響力に対して、或る種の国文学研究者は、自身の態度として、反動である可能さえ含まれているのである。
 今日の一般市民の生活感情と古典の感情とが、ぴったりそのまま同じであろう筈はないのであるから、全体として見れば、市民的常識の中に古典の知識は乏しいと云える。
 佐藤春夫氏のような作家が、「もののあわれ」について云々したりすると、そこに一応読者が生じるのは、古典文学の主潮としての「もののあわれ」そのものが知りたいというより、佐藤春夫氏という現代の作家に対する予備知識なり親しさなりで、そのとりあげた問題に一時たりとも目をとられるのである。批判をする準備は
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