性格の集積を発見してゆくだけの自信と覚悟と勤勉とがなければならないと思う。技術上日本文学がもっとわがものとしなければならない構成力について見ても、根本は、現実把握の力の問題にかかっている。更にこれをさかのぼれば、生活に肉薄した作家の常に正気を失わぬ眼力、人間の幸福に向っての骨惜しみをしない努力とそのための価値の探求・発見の態度にかかっている。あるままを素直に感受する敏感さと、驚きもよろこびも疑問をも活々と感じ得る慧智と、人間の文化の今日までの成果に立っての強靭なる判断力、推理力が、益々作家に必要な稟質となって来ている。このような点では、科学の発展のヒントをつかむ人間精神の活動の瞬間と文学によりゆたかな作品をもたらすモメントと、大変互に似よっているのである。
 近頃「事実の世紀」というようなヴァレリーの言葉が、一部で翻訳され、人間が存在する限り、方法的変遷を経て而も決して絶えることのない筈の「ヒューマニズムの終ったところから」「事実の世紀」である現代がはじまっているなどと云われたりしているが、現象追随では、肝心の事実さえつかまるものではない。
 パール・バック夫人が、今度の事変について書いている文章がはっきりその実例を示している。
 火野葦平という人が、芥川賞を貰った。彼が今日おかれている境遇にあって、自分が作家であるという自覚をつよめられたことは興味あることだと思う。「糞尿譚」の題材と文章との間にはギャップがあって、いかにもあの作の書かれた時の文壇を語っているものだが、彼の生活経験は、ああいう贅肉と線とをどのように引しめたであろうか。蓄積された経験はこれから、どんな文学の成果となって現れて来得るであろうか。この作家をめぐる内外の事情のなりゆきこそ、或る意味ではひとごとならぬ注目をひくものであると思う。何故ならば、彼の境遇は数において彼のみのものでないと同時に、質的に明日の文学に影響するものであり、仮令《たとい》形の上で様々の相異はあろうと我々すべての生活と文学とに詳細につながり合っているからである。[#地付き]〔一九三八年六月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「三田新聞」
   1938(昭和13)年6月10日号
入力:柴田卓治
校正:米田
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