い。文学の成長のための新しい土としてルポルタージュが待たれたのは程遠いことではなかった。だがルポルタージュは、文学に生新な局面を開花せしめることは出来なかった。この間の消息が、今日の文学の帯びている複雑な相貌なのではなかろうか。
よかれあしかれ、望むと望まないにかかわらず現実は動いている。常に苦痛と希望とを綯《な》いまぜて、人間の意志を照りかえしながら輝きつつ翳りつつ推移してゆく。現実の辛酸が我々を打ちのめしもするが又賢くもする通り、歴史の緊迫した瞬間、文学は一見迂遠に見えるが実は、ある時間が経つと最も豊富な形でその諸経験を広くは人類的な意味で各民族の文化の宝庫の中へたくわえるものである。
今日、そして明日の新しい日本の文学を語る場合、これから文学の仕事に従って行こうとする人々にとって、現在は独特な困難がある。それは、文学というものの枠が、常識の中へ植えこまれて来ている尨大な東洋という感じ、民族という感じなどで、文学地理の範囲を大いに拡げられていることである。急に拡大されたこの大陸にもまたがる文学の枠は、その端を世相の当然として壮なるものと相触れてもいるのであるから、或る人々にとっては、感情の直接反応としては、何か拡がった枠の感じだけが先に来て、目前の文学建設の実質のとらえどころがはっきりとしないような危険がある。感じに負けて、息づかいせわしく弾んでいるところがある。
巨大な建造物に、強い土台がいるというようなことを云えば人は、わかり切ったこととするのだけれども、規模も内容も大きい新しい文学をつくるためには、作家がどれほどリアルな眼をもって洞察し評価し取捨して現実を再現しなければならないかということになると、ついそれが身の処置と混同して理解されたりア・ラ・モード風の方便地獄に片脚いれられたりしがちである。思想的潮流のあらゆる時代を潜って、文学はこの点執拗な粘着力で、人間が生きている人間の姿を書くことを求めつづけて来ているのである。
昔の外国のロマンチシズムの時代を顧みるとなかなか興味のあることは、抽象名詞が雄飛した割合に、作品で後にのこるものがないことである。明日の日本の文学が雄大なものであるためには、今日の生活の現実に徹しなければならず赫々たるものに対してはまことに微々たる如きめいめいの生活の姿に、猶当と[#「当と」に「ママ」の注記]は観なかった意義と社会
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