命をおとして、クライドは死刑になるあたりの心理の追究は、ドストイェフスキーの影響をうけて、作品を通俗小説のプロットから救っているようだが、全体からみるとこしらえものであるという印象を与える。
そういう部分ばかりでなく、ドライサアの現実のみかたには通俗なところがあって、クライドの心理、行動のモメントを肯定している作者としての肯定のしかたにもそういう点が強く感じられる。ドライサアはアメリカの作家として、あらゆるアメリカの悲劇を克服しようとしてたたかうようなたちの青年は描かないで、クライドのように富は富として常識に魅せられ、享楽は享楽として魅せられて行って、しかも、素手でそれを捕えてゆくほど厚顔でもあり得ないアメリカの普通人の悲劇を描く作家と思える。ドライサアが世界の歴史の転変に対して作家としてもっている限界について云われた理由もそこに在ったのだとわかる。今度読んで特別心に刻まれたのは、それらのドライサアの作家としての特質が、アメリカという大陸の社会生活の血液循環に何とはっきり養われているかという点についてのおどろきである。
バルザックの作品の深さ大さにふれるとき、私たちは作家バルザックの個人としての生活力の逞しさ旺盛さに面を打たれ、同時に十九世紀のフランスという時代の力づよい飛沫を顔に浴びる。
ドライサアの作品が感じさせる底なしのようなアメリカ生活の蠢《うごめ》きの圧力感は、一個ドライサアのものではなくて、単に世紀のものでもなくて、アメリカという広大な土地の上に複雑を極めて交錯する現代社会の矛盾の姿であって、同じ矛盾は各国にあるのだが、アメリカは大陸であるという独自な生理で、その血液の流れ工合で文学が肉づけられていることを痛切に感じるのである。
日本で大陸文学ということが云われはじめて二年ほどになるが、文学のこととしてさまざまの問題が包含されていて、そのことが心に在って、ドライサアの作品は一層新しい暗示をもったのであったと思う。
同じ全集にシャーウッド・アンダスンの「暗い青春」が出ていて、これは作品としてみればドライサアと全くちがった世界をもっている。アンダスンの詩人らしい気象、アメリカの効用主義的社会通念に対する反抗が主題となっていて、文章もリズムを含んで感覚的で、一見主観的な独語のなかに客観的な批判をこめて表現する作風など、ドライサアとは全く異っていて、近
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