大衆と云えば直ちに一種の興奮的類型にとらわれるような幼稚な概念は揚棄されているにしろ。
 結局常識の世界の方が住みよい、というような言葉によって表現される作家の或る近頃の感情や市民的平民的な日常の伝習の姿に対して和して同ぜず式な或るポーズで対していることと、作家が今日の現実の常識を描き、大衆を描こうとする情熱とが一つものであるとは思い難い。民衆は現代の諸矛盾を八方からその身に受けて照りかえしつつ日々夜々を生きているのであって、自身の置かれているこの社会での場所を、昨今一部の作家が殆ど一種のエキゾチシズムをも加えて云うかと思われる民衆的なる総称の下に、強《あなが》ち鼓腹撃壤しているのでもないのである。
 今日云われている文学の民衆化のことは、嘗て屡々《しばしば》くりかえされて来た純文学対大衆文学の問題ではなく、文学そのものの全体的な重点の移動がもくろまれているところに重大な歴史的意味をもっている。従って、大衆と云い、民衆と云うその目安がどこにどのように置かれるかということによって、将来の文学そのものの本質が左右される。文学が、単に低きについたことにならされぬように、作家は警戒し努力しなけ
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