去の追究力を喪失し、あるがままの現れにしたがって写し描いてゆく、というような状態に陥る危険を示していることはまことに深甚な示唆を含んでいる。文学において同じく人間性を主張するに当っても、そこに様々の力点の相違があったことは、世界の文学史の数頁をよんだものの理解しているところである。
 今日、日本の大衆のおかれている現実の事情に立って、民衆の文学をとなえる作家によって人間性のどのような面が、どのような筆致でとりあげられているかを詳細に看た場合、私たちは、文学の大衆化という声は必しもその全部が大衆の優勢の姿として、その声として、現れているのでないことを率直に認めなければならない。
 作家が、大衆のおかれている感情状態の裡から現実を描いてゆくことと、大衆のおかれている文化的、社会性の低さのままに自らを流し従ってゆくこととは、全く別の二つのことである。もし作家が大衆化の意味をあやまって、後者の態度にしたがうようなことがあれば、それは大衆を低めているものの力に屈すと同時に、作家自身を無力化せしめている力にも自身から叩頭することになってしまうであろう。
 近頃は、嘗てプロレタリア文学運動に従った人
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