大衆と云えば直ちに一種の興奮的類型にとらわれるような幼稚な概念は揚棄されているにしろ。
結局常識の世界の方が住みよい、というような言葉によって表現される作家の或る近頃の感情や市民的平民的な日常の伝習の姿に対して和して同ぜず式な或るポーズで対していることと、作家が今日の現実の常識を描き、大衆を描こうとする情熱とが一つものであるとは思い難い。民衆は現代の諸矛盾を八方からその身に受けて照りかえしつつ日々夜々を生きているのであって、自身の置かれているこの社会での場所を、昨今一部の作家が殆ど一種のエキゾチシズムをも加えて云うかと思われる民衆的なる総称の下に、強《あなが》ち鼓腹撃壤しているのでもないのである。
今日云われている文学の民衆化のことは、嘗て屡々《しばしば》くりかえされて来た純文学対大衆文学の問題ではなく、文学そのものの全体的な重点の移動がもくろまれているところに重大な歴史的意味をもっている。従って、大衆と云い、民衆と云うその目安がどこにどのように置かれるかということによって、将来の文学そのものの本質が左右される。文学が、単に低きについたことにならされぬように、作家は警戒し努力しなければならないと思う。従来のような生活ぶりの作家たちが、自身の内にある所謂文壇的、文学的関心以外の諸要素、家庭的な感情だとか、近所合壁への義理だとか、些細な日常利害だとかを、直ちに自身の中の民衆的なるものだとすれば、それは大きい誤りなのである。
この点について、私は特に興味ふかく思うのであるが、ひところ或る種のプロレタリア文学運動の活動家が人間性というものの理解について陥り勝ちであった二元的見解をひっくりかえしたようなものが、今日まで極めて文壇的な雰囲気、折衝、感情錯綜の中に生活して来ている作家その他の心持の中にあるらしいことである。
この二元的な人間性の見かたは、プロレタリア文学にあっては、彼も亦人間であった、という風に闘争的な義務、規律、英雄主義に対置してあらわれ、その人間性の抽象化は非現実な現実の見方とされて来ているのである。所謂文壇人の領域で、人間性についての二元的な感じ方は、作家でない種類の人間的美質というようなものだけを抽象して来て感服する昨今の風となって現われて来ている。
最近、それについて興味ふかい二種の実際の場合があった。一つは、左翼的な或る作家の経験であるが、そ
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