去の追究力を喪失し、あるがままの現れにしたがって写し描いてゆく、というような状態に陥る危険を示していることはまことに深甚な示唆を含んでいる。文学において同じく人間性を主張するに当っても、そこに様々の力点の相違があったことは、世界の文学史の数頁をよんだものの理解しているところである。
 今日、日本の大衆のおかれている現実の事情に立って、民衆の文学をとなえる作家によって人間性のどのような面が、どのような筆致でとりあげられているかを詳細に看た場合、私たちは、文学の大衆化という声は必しもその全部が大衆の優勢の姿として、その声として、現れているのでないことを率直に認めなければならない。
 作家が、大衆のおかれている感情状態の裡から現実を描いてゆくことと、大衆のおかれている文化的、社会性の低さのままに自らを流し従ってゆくこととは、全く別の二つのことである。もし作家が大衆化の意味をあやまって、後者の態度にしたがうようなことがあれば、それは大衆を低めているものの力に屈すと同時に、作家自身を無力化せしめている力にも自身から叩頭することになってしまうであろう。
 近頃は、嘗てプロレタリア文学運動に従った人々が、大衆性の理解についても、一種奇妙な役割を果しているのを見うける。その人々の云うところは、もとのプロレタリア文学運動などは親がかりの若僧が観念的に大衆化を叫んでいたのであって、考えて見ればそれらの人間が大衆を云々するなどとは烏滸《おこ》がましい、という風な論である。
 日本のプロレタリア文学運動が、当時の歴史性によって多くの特徴的な欠陥をもっていたことは事実であった。しかし、私はそういう論者に、読者とともに次のことについて誠心からの答えを求めたいと思う。浮世の辛酸をなめ、民衆としての苦労をした人々を、所謂貧すれば鈍する的事情から立たしめて、その辛酸と労苦との社会的意義を自覚させたのは何の力であったろうか。そして、その辛酸と労苦との意義を語ることに確信を与え、新たなる文学の実質としてその歴史的足場を感じさせたのは何の力であったろうか、と。
 民衆の自発性の表現としてのプロレタリア文学運動の意義は、嘗てその運動に参加した一部のインテリゲンツィアの人々の今日の自嘲その他にかかわらず、文化の蓄積として、大衆にとっての社会的な何かの実力として、ちゃんと大衆の中に残っているのである。もとより、
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング