生のディフォーメイションがあるのみである」ことを窪川鶴次郎が警告的に語っている言葉に対して、片岡鉄兵氏は寧ろ反対に、そこに日本の小説の新しい段階を見ようとしている自身の見解を示していられる。
 筆者の意見によれば、小説のなかに流行しはじめている「誰にも嫌われる、ふてぶてしい性格」の登場の今日の必然は、彼等の存在が今や無視出来ないほどの重要性を持ち、作家をして書かずにはいられなくさせていること、同時に近頃の小説が一方で従来の繊細な内的追及に没頭している他の一方では、これまでの文学の心情と全く縁のない、別の生の発展に興味を持ち出し、「嫌な奴」を若い作家たちが従来の文学の武器で粉砕しないのは、それらの若い作家たち自身のうちにその一部分が流れているからでもあろう。いま、それらの作家たちは「嫌な奴」と取組みはじめたのであり、その取り組みの中から新しい武器を獲得して来ようとしているのだ、という見地から、そういう今日の流行を人生のディフォーメイションがあるのみであるとする論に反駁していられるのである。

 文学におけるディフォーメイションは、本来意志的なものであるということは、ディフォーメイションの最も高度な様式が象徴と諷刺の文学であるという点から誰にも明らかであると思う。このような文学の力づよいディフォーメイションは、その文学の源泉としてそれらの作家たちの内部に極めて手強《てごわ》く強靭な人生への健全な観察と判断とを前提している。ゴーゴリやドーミエの諷刺を思い合わせる迄もないことであると思う。そのような文学のディフォーメイションが初めて当時の現実と対抗し得るものであったことを、否定するものはないのである。
 しかし、私たちが注目をひかれることは、これらの文学のディフォーメイションの古典の選手たちは、決して今日日本の小説へ「嫌な奴」の登場を流行させはじめた一部の作家たちのように、そして片岡氏がそれを肯定していられるように自身の内にもその一部の流れをもっているという人々ではなかった。
 日本の文学における人間性の問題は三年ばかり前にヒューマニズムの問題が現実の推移した事情のままに揉み拉がれて以来、不運なめぐり会わせに消長しているために、今日登場する「嫌な奴」が作家との間にもっている内在的関係も云わば複雑怪奇ならざるを得ない点もある。若しその内在的なものを肯定するとすれば、そのように
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