文学のディフォーメイションに就て
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)手強《てごわ》く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年五月〕
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 私たちの日常生活にある歴史の感覚というものを考えてみると、いろいろ非常に興味ふかくもあり同時にこわいようなところがある。一定の時間がすぎて、所謂歴史となって目の前に現れたとき、その時代の諸関係諸要素というものがある程度まで客観化されて、例えば今日明治初年の文化の性質を語る場合のように、把握しやすい輪廓をもって見えて来るけれども、今日の私たちの生活の感覚が日々の歴史の全体の動きと、自分という個人の歴史とのかかわり合いの刻々の断面を、どのように感識し、わが生活の実質として自分に把握しているかということになると、実感に立っての答えは極めて複雑であろうと思う。
 私たちが、今日の時々刻々を歴史として明確に自分の生活の足の裏へじかに感覚しつつ生きてゆく習慣に馴らされていないということは、人間の歴史としての、飾らない歴史の感情に馴らされて来ていない過去の思考の伝習の影響でもある。
 歴史が、ほかならぬ今日の、この時の、この私たちの感情と行動にもこもってそのものとして生きているという感覚がはっきりしないことは、昨今のように世界の歴史が強烈に旋回して、日常の気流が至って静穏を欠いている時期、とかく私たちの現実の歴史感を麻痺させられ、歴史への判断から出発する自身の生活的思意を渾沌とさせられる危さが多い。しかも現実は容赦ないから、その生活的思意の無方向のまま矢張り我々は歴史の因子として厳然と存在しつづけ、そのような怠慢で自分が存在したことの報復は極めて複雑な社会全般の事情の推移そのものから蒙って生きて行かなければならない関係におかれているのであると思う。
 歴史に対する我々のポテンシャリティの捉えかたとの連関でみると、文学におけるディフォーメイションの問題はその過程に様々の曲折をふくんでいる課題の一つだと思われる。

『新潮』六月号に片岡鉄兵氏が「嫌な奴の登場」という題で小論をかいていられる。「近頃誰からも嫌われる、ふてぶてしい押の強い、ある共通したタイプの人物を小説に取扱うのが流行っている」しかし作者たちがそれを描く意図が常に明瞭でなく、そこには、「ただ人
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