の到達点、そのものの理解、利用面が十分柔軟寛闊に開拓されておらず、同時に所謂科学というものが、旧式の考えかたで、そこに作用する人間性を全く排除しているため、勢い科学と文学との手近な接合点が探偵小説というようなジャンルに求められるのだと考えられる。科学現象は純客観的なものであるにしろ、その純客観的な科学の現象にかかわってゆく際の人間的要因というものこそ、科学が人間の生活圏の中に存在するモメントをなしている筈だ。どうして、そういうモメントにおいて、科学と文学とが渾然とした統一におかれた作品がないのであろうか。
 云ってみれば文化の科学性そのものの弱さと、発揚の場面の限界の狭さとが文化の社会的な性格をもってここにあらわれているのだと思う。寺田寅彦氏の随筆にしろ、愛好する人は尠くないが、果してあれらの随筆は科学者としての寺田博士の高さをそのまま表現し得ているのだろうか。つまり、あれらの夥しい随筆は、作家に及びがたい独特の科学精神の文学的表現であるだろうかと考えると、そういうものとはどこかちがって、通俗に云う文学的な面[#「文学的な面」に傍点]が表現されているのだという印象をうける。文化感情の分裂の形が、ああいう調子の随筆となって表現されていると思える。
 一昨年ごろ、文壇で報告文学のことがとりあげられるとともに、素人の文学というものが一部の人々によって云々されはじめた。素人というのは、この場合、職業的作家ではない生活人という意味であって、その動機は、従来職業作家が、限られた作家的日常の範囲でふれ得ている社会現象、社会感情より昨今の現実は更にひろい複雑なものとなっているのであるから、文学において玄人でない人々が、直接素朴な生活の見聞感情から書いたものが、文学のひろがりの中で評価されて行かなければならないという意味であったと思う。
 文学の実際としてみると、このことは今日の文学のありようとの関係で極めて微妙な結果をもたらしていると思える。素人の文学が、その生のままの生活感で日本の現代文学をより豊富なものにしてゆく速度よりも寧ろ、素人の文学としてうけいれられてゆくことの底をなしている今日の文化感覚の急速な下降を却って促進し肯定する形になっている方が、影響として顕著であるような傾きがある。
 素人の文学ということが評価にのぼる場合、そこには、文学の技術に於てこそ素人であれ、生活人と
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