プロレタリア作家の生活慾はもっと直截であり熱烈である。革命的作家、文化の闘士として直に勤労大衆のうちにまじり、闘争をともにその中にあって闘争して、大衆の豊富な革命的経験を自身の創造力として摂取するとともに大衆を自身の経験の価値に目ざめさせ、プロレタリア文学における新しい交代者の養成に努力するのだ。

 徳永直の「林の『青年』を中心に」という論文は、徳永の近頃の勉強が明らかに反映されている点、および歴史小説をいかに書くかというひろい観点から「青年」を問題としている点など、興味あるものであった。
「当面した現実の階級闘争の必要性を歴史小説において取上げることはブルジョア陣容においても見のがしてはならない。」直木三十五、吉川英治らが明治維新を「王政復古の名によって描き出し、帝国主義段階の今日において大衆のファッショ化を積極的に強化しようとはかっている。」この現実の闘争におけるモメントこそわれわれプロレタリア作家に正しい歴史小説を書くべき任務を負わせている。プロレタリア作家の歴史小説として「青年」を批判しているのである。
 徳永は、亀井の論文においては林の「階級的分析に対する無関心」としてだけ提出されている点を核心的にとりあげ、明治維新がいかに農民の搾取の上に行われた「反革命的」性質のものであるかを摘発し、今日の現実に闘争する革命的大衆にアッピールすべき農民の姿を小説のどこにも見出し得なかったことを「青年」について批判している。特に高崎郡領一揆と大久保利通にその例を見る維新の封建地主勢力の庇護のもとにあった志士団と革命的農民との敵対関係へ、われわれの注意を向けている点は見落すことのできないことである。
 明治維新を「その被圧迫階級の立場から描くことこそマルクス・レーニン主義的であり、唯物弁証法的であり、今日の闘争と切々脈打つところのわれわれの歴史小説でなければならぬのだ。」この徳永の解説にわれわれは少しばかりの、然し意味ある数行を附加しよう。レーニン主義・プロレタリア文学として今日に役立つ歴史小説として明治維新を書くための取材は広汎な範囲に可能であり、決して直接農民一揆をだけ取扱うことが、革命の前夜における日本の闘争の現実の必要性を満すのではない。「生麦事件」を書こうとも、ブルジョア作家十一谷義三郎をしてブルジョア的盛名を得させたと同時に堕落させた「お吉」を書こうとも、「天誅組」を書こうとも、取材を貫徹して、維新が、封建的地主絶対主義支配の門出であるという特性をわれらに示し、こんにちの窮乏した農民の革命的高揚、その娘が年々多く吉原に売られてくるという慄然たる事実の根源は、明治維新の農民搾取制度にみることが摘発されなければならぬ。さらに、樋口一葉がそれに向って彼女の小説の中で非組織的な小市民的反抗を自然発生的に示した、明治のブルジョア官僚=官員はほとんどことごとく階級層においては革命的農民と対立した地主的勢力の取巻き志士団のくずれであったこと、故にひろく衆をあつめる人材登用なるものも、実質的には地主的勢力によって占められ、文化は絶対主義宣伝として独占された。憲法発布の当時、「絹布のハッピを下さるのか」と驚いた平凡な市民の逸話からさえ、精鋭なプロレタリア作家はこんにちの抑圧的支配形態の偽瞞を曝露し得ることを理解しなければならないのである。

 さて、ここまで書いてきて、十一月『中央公論』の「青年」続篇をひろげた。林は「青年」第二篇において幾分筆致を引しめて書きすすめているが、第一篇に現れた基本的欠陥は克服されていない。筋は第一篇とおなじに、階級闘争の現段階から逸脱している上、青年志士連の幕府批判を説明した部分は、今日の読者に対してさながら愛郷塾の演説のような反動的役割を演じている。「幕府は肥壺である。ふりかえって京都を見よ。京都には、かつてわが国を無階級で自由な一国に統一して合理的な[#「合理的な」に傍点]政治によって万民をうるおした聖天子の末裔があらせられる。(中略)そのむかしの自由な日本はこの聖天子を幕府とおきかえることによって再生する。」この一文をよむわれらの脳裏に愛郷塾が髣髴し、社会ファシストの産業奉還論が想起されずにいるとすれば、むしろそれはおどろくべきである。
 林は獄中での精力的な読書にもかかわらず、「京都の一族が封建地主的存在としてどのような窮迫した経済状態にあり、新興ブルジョア日本の侵略主義帝国主義的確立のため、この封建的存在自身の経済的必要からいかに狡猾に専制的支配権力として活躍しつつ今日に及んでいるか」を、「青年」において曝露し得ない。「青年」第二部をよんでああこれは主題のとりおとされた小説であるという感じに打たれた。

 徳永直が十一月号の『改造』に文芸時評を書いている中に、作家としていろいろの批評に対するがんばりのことがある。林が「作家はガンコでなければならぬ」といったのを、当時「阿蘇山」を中絶し「ファッショ」を中絶した徳永が、基本的線に沿おうという努力のある限り作家は批判に圧倒されずガンばるべきであると感じ、賛成した。けれども、林の諸作品が同じ「誤謬に属するものとしても基本的方向から背を向けている」以上このまま「ガンコであってはまったく階級的裏切りとなるであろう」と友情のある憂慮を示しているのである。
 林房雄は、近作に対して与えられる多くの同志的批判をどう理解しているであろうか。帝国主義戦争強行のため、日本の封建的専制支配が革命運動に対して、今日ほど兇暴であったことはない。失業、農村の飢餓に苦しむ大衆の革命力の深刻な高揚とそれに対する支配階級の恐怖は、プロレタリア文化団体に対してのうちつづく暴圧、白テロにまざまざと反映している。世界の情勢は革命的作家に実に多くの任務を負わせ、実践を必要としている。列強ブルジョアジーの第二次世界戦争の準備に対し、世界のプロレタリア作家の闘争は激化されるが、東洋のポーランドである日本においてプロレタリア作家の歴史的使命は、革命的大衆の任務とともに画期的なものがある。
 林房雄は、プロレタリア作家として持つ自身の影響力によって、作品はその成功失敗にかかわらず、プロレタリア文学運動全線の問題として批判されるのであることを、まともに認めなければならぬ。ブルジョア・ジャーナリズムがわが陣営の作家を恐怖し、有能な作家が投獄されている時、われらは全力をつくし、どの一部を切ってもピチピチとそこだけで叫ぶべきことを叫び得るようなボルシェビキ的作品を創作してゆかなければならぬ。対立する階級の独占的文化機関の一部をわれらが占めたなら、それはプロレタリア世界観によって確保し、勝利の足場とすべきである。
 林房雄は二年の獄中生活の間、決してあんけらかんとしていたのではなく、大いに読んだ。朝五時に起きて午前中創作に没頭するという学ぶべき習慣も奪取してきたという話である。「青年」「乃木大将」その他は二年間の読書の成果なのであるが、林の作品を批判するにつれて、一つの強い憤怒が湧いてきた。それは専制国日本の刑務所で実行している読書制限の問題である。
 現在豊多摩にいる同志たちはトルストイやドストイェフスキイなどさえ禁止されているという有様だ。率直にいえば、そのような不便な境遇におかれる以前に、林はもっともっと基礎的な多くの勉学をプロレタリアの前衛として身につけておくべきであったろう。そしたら、不自由な読書の中からも掴むべき線は失わずに掴んだであろう。然し、これは、そうあったらよかったということに過ぎず、今日の激化した情勢のうちで誰がそのような十分の土台をつくり得た後、敵の襲撃に具えるということができよう。われらは、不意に、陰険に、不条理に短期間、あるいは長期間自由を奪われる。林は、二年の間、そのようにプログラムをもって読書してもなおかつレーニニズム的発展は十分なし得ないような書籍しか自身に許可しなかった支配階級に対して、かつて一度の憤りをも感じたことが無いであろうか。
「青年」が考証だおれであること、革命的作品ではないこと、そのような批判をうけることは林にとっては口惜しいであろう。そのような批判を避け難いと理解するとき、批判する者の舌はにがいのである。おなじくくちおしさで苦いのである。いわば無駄に読まされた百巻の書籍に対して林のために憤怒し、正しい知識を圧殺する野獣的暴圧に対してプロレタリア作家として血の熱するのを覚える。林房雄は作品に対する批判をまともに[#「まともに」に傍点]摂取し、プロレタリア前衛としての日常生活によって速かに立ち直り、抑圧そのものの形態として存在する読書制限による敵の重圧の痕跡を癒さなければならぬ。ボルシェビキ作家として発展することを、階級的抗議として敵の面前にうちつけなければならぬ。この一点に集中して敵の抑圧の組織を峻烈に検討するだけでさえ、よく一人のプロレタリア作家をして奮起せしめる階級的悪を見いだすのである。「われわれは、われわれがまだこれらすべての醜悪事の十分に広汎、明瞭かつ急速な曝露を組織し得なかったことについて自分自身を、大衆の運動からの自己の立ちおくれを責めなければならぬ、」「学生と異教徒、百姓と著述家の上には、その生活の一歩ごとに労働者をかくも抑圧し圧迫するその同じ闇の力が跳梁跋扈していることを理解し、また感ずるであろう。」(レーニン)[#地付き]〔一九三二年十二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「プロレタリア文学」日本プロレタリア作家同盟機関誌
   1932(昭和7)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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