ら逸脱している上、青年志士連の幕府批判を説明した部分は、今日の読者に対してさながら愛郷塾の演説のような反動的役割を演じている。「幕府は肥壺である。ふりかえって京都を見よ。京都には、かつてわが国を無階級で自由な一国に統一して合理的な[#「合理的な」に傍点]政治によって万民をうるおした聖天子の末裔があらせられる。(中略)そのむかしの自由な日本はこの聖天子を幕府とおきかえることによって再生する。」この一文をよむわれらの脳裏に愛郷塾が髣髴し、社会ファシストの産業奉還論が想起されずにいるとすれば、むしろそれはおどろくべきである。
林は獄中での精力的な読書にもかかわらず、「京都の一族が封建地主的存在としてどのような窮迫した経済状態にあり、新興ブルジョア日本の侵略主義帝国主義的確立のため、この封建的存在自身の経済的必要からいかに狡猾に専制的支配権力として活躍しつつ今日に及んでいるか」を、「青年」において曝露し得ない。「青年」第二部をよんでああこれは主題のとりおとされた小説であるという感じに打たれた。
徳永直が十一月号の『改造』に文芸時評を書いている中に、作家としていろいろの批評に対するがんばり
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