提とするものであり、日本におけるファッシズムは、すなわち封建的地主的絶対主義であることが明らかにされた今日、プロレタリア文学の戦略は、特に農民文学の面でこそ重大な展開をとげるべき時に立ち到っているのである。
 先に引用した森鴎外の言葉および筆者が「十分の一」のものを「十分の十のすがたにかえす[#「かえす」に傍点]」といっているところの、ヨーロッパ・ブルジョア大作家見直しの考えから、もしプロレタリア・ルネッサンスというような考えが導き出されたのなら、これもまた一つの誤りである。われわれプロレタリア作家が「文化の世界的レベルをあらわすような文学」を生むためには、「日本のブルジョア文学者だけを相手にしていたのでは」もちろん決してだめだし、また林のように「シェクスピアやバルザックやトルストイと競争しなければならぬ」という単純な意気込みだけでもだめである。「瘠せ馬」であると林を歎息せしめた日本のブルジョア文学がなぜ瘠馬であるか、ゲーテはなぜゲーテであり得たのか、その歴史的必然性を、プロレタリアの世界観のみが把握しているところの唯物史観的国際性によって検討し、その検討の階級的精密さ、科学的尖鋭さが、ひるがえって今日のわれらの現実に及んだ時、はじめてマルクス・レーニン主義の世界的レベルをあらわす文学をわれわれプロレタリア作家が各自のモメントにおいて創り得るのである。もとより単なる文学の教養の問題ではない。
 進んで筆者は日本におけるプロレタリア文学運動の新たな課題としてわれわれの前にある政治の優位性の問題ならびに組織活動と創作活動の弁証法的統一の問題にふれている。同盟内でも多くの理解の不足を示し、また敵の攻撃が集中されたこの重大な問題について筆者は貧弱にふれている。「政治主義」と「文化主義」という二つのものを認識の根柢においては対置させつつ、「文化主義を裏がえしにしたもの」が政治主義的偏向であったとかたづけている。組織活動と創作活動との統一の問題も紙数がたりなかったためか、その問題の提起者であり解決者であるサークル活動の具体性、サークル活動は何を作家に与えるかという実際問題まで切り下げていない。亀井は書いている。「われわれは政治理論の究明やブルジョア文学の批判のみに満足せず、それらをたずさえて労働者農民の生活と闘争にじかに触れようと試みているのではないか」と。いや、いや。われわれ
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