と思うと、何故その精神的な拠《よ》りどころを、官吏・軍人・実業家と称せられる社会の範囲に求めなければ、安心ならないような気になっているのだろうかということに就て。
『文学界』の座談会では、はじめの問題について、従来の文学は、既に文学が人間をひっぱりまわしているので、人間が文学の主でなくなって来ている。文学青年は、小説や評論から活きかたを学ぼうとするより、書き方をならおうとして読む、その特殊な読み方に作者が追随して来たから、遂にここに到ったと云われているようである。しかしながら、一般読者の胸の中には、折りかえして、では何故、現代の文学愛好者の大多数がそういう自他ともに低めるような情けない末技的興味にひき込まれてしまっているのであるかという反問が生じる。
明治以来今日までの七十年間、日本のブルジョア文学はみな少からぬ波瀾を経て来た。いくつかの文芸思潮がそれぞれの作用をのこして過ぎたが、真に当時の社会的欲求と全面的に結びつき、それを反映しつつ民衆の生活感情にまで浸透して指導的な役割を果したブルジョア文学の時代と云えば、日本では恐らく明治初年から国会開設まで二十数年間の所謂《いわゆる》開化
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