術家たちの心を、私は自分の粗雑な理解ながら親しみぶかく感じて読んで来た。万葉の芸術には、高貴な方の作品もあり、奴隷的な防人の悲歌もある。万葉の時代は、日本の民族形成の過程であり、奴隷経済の時代であり物々交換時代であり、現実に今日私たちの生きる社会の機構とくらぶべくもない。万葉の精神を唱える作家自らがそれを抽象的情熱と、認めざるを得ない理由もうなずけるのである。
『読売新聞』に、この一月座談会記事が連載されていた間の或る日「てんぼうだい」に一読者よりとしての投書でのせられていた。「前略、万葉古義を拵えることも勿論立派な仕事と思いますが、而し民衆はそういう(文化的な)ものよりも、もっと生活に喰いこんだものを求めているのではないでしょうか。略」
ぼんやりした表現で書かれていたけれども、私の印象にのこった。『文学界』の座談会で小林秀雄氏は「やっぱりでたらめでもいいから嗾《け》しかける者がなきゃだめだ。(中略)やっぱり民衆のお尻をくすぐらなきゃ駄目だ。いまお尻をくすぐるような批評家が現われなけりゃ駄目だ」と力説しておられるが、民衆をどのような方面へ嗾しかけ、尻をくすぐってどうしようと云うのであ
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