いて自我の啓発、探求をもとめているにかかわらず、遂に芸術の中に語るに足るだけの自我の内容と発動とを、作家生活の実質から喪失させてしまっているのであった。
『文学界』の座談会で指摘されている作品から活きかたを学ぶ読者が減ったということは、とりも直さず、作家自身、示すべき人間的生き方を社会的現実の上に失ってしまっている事実を語っているのである。貧困が文化面に迄及んでいる一般人は、身に迫った生活の苦痛の中で、活きかたを求めこそすれ、こなごなのようにされ、生気を失っている自我がああでは如何、こうでは如何と、自意識の鏡にうつして身をよじる文学の眺めに、ついて行けないのは当然ではないであろうか。文壇は、この冷淡さにおどろかされ、新人を新人をと求め、賞を氾濫させている。文学青年が益々、いかに書くかを見習おうとして、一部の作家と作品の周囲に集るのもまた避け難いことと思える。
近代日本のブルジョア文学において、常に綯《な》いまぜられて来た退嬰的な妥協的な封建的戯作者風の残りものとの関係においては、進歩的面のバトンの運び手であった自我の探求は今日、未開のまま外ならぬ生みの親のブルジョア文学者の手で※[
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