いる通り「浮雲」における作者の人間探究の態度の真実さに打たれてのことなのであった。
「浮雲」が発表される前後に、山田美妙斎による言文一致の運動が擡頭した。これは、漢文読下し風な当時の官用語と、形式化した旧来の雅語との絆を脱して、自由に、平易に、動的に内心を芸術の上に吐露しようという欲求の発露であった。
 ところが、二葉亭四迷の芸術によって示された文学の方向、影響は、上述の日本の事情によってそのままには発展させられず、硯友社尾崎紅葉等の作風に遮断されている。
 紅葉が活動した時代、日本には既に憲法があり、国会が開かれており、官員さんの全盛時代、成り上りの者の栄華が目立った時期である。文学者の世界は当時の権柄なる者にとってもはや自身の啓蒙のためにも、支配のためにも必要がなくなっており、人間並に扱われなかった。作家は作家としての軽侮をもってこれに報いたのではあったが、経済・政治生活からの閉め出しは、客観的には紅葉を再び魯文に近いところへ押し戻した。俗輩どもを無視する作家としての誇りを、紅葉は自身の文学的感覚、教養に認めるしかなかったのであるが、ヨーロッパ文学は未だ彼の血となり切っておらず、境遇的事情もあって、彼は自身を通人として、文人として伝統の裡に活かしめたのであった。
 ここで、面白く思われるのは、自由民権が唱えられた時代からのより社会的性質のつよい文筆家たちは「経国美談」の作者の矢野龍溪にしろ中江兆民にしろ、主として新聞人として活躍していることである。作者紅葉とは編輯者対寄稿家という現代の関係が既に生じている。
「金色夜叉」は一世を風靡したが、硯友社の戯作者的残滓に堪え得なかった北村透谷は、初めて日本文学の上にヒューマニティの提唱をもって立ち現れた。高く、広く、輝かしく飛翔せんと欲する自我、人間性は、ロマンチシズムの焔に照らされて、通人の妥協的屈服的世界観を拒絶したのであった。
 続いて藤村によって「誰か旧き生涯に安んぜんとするものぞ。おのがじし新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる」と叫ばれ、「遂に、新しき詩歌の時」が来た。
 日清戦争後に起った自然主義の移入は、過去の因習に反逆すると同時にこのロマンチックな人間性への憧憬をも蹴破った。人間生活の暗い半面、神性に対する獣としての人間が描かれはじめたのであったが、自然主義も日本の特殊な社会的・文化的地盤へ落ちては、独特な花を開かざるを得なかった。その精神史においてまだ一度も人間らしい人間としての自覚、活動の歓喜を味ったことのない日本の知識人の生活感情の裡には、綿々として尽きず、人間性において成り成らんとする意欲が蠢《うごめ》いている。日本の自然主義作家が、一度は確立された自我に向って振う痛烈な自己の鞭打の精神力をもち得ず、低く日常茶飯事を観照し写実的作用を営むところに定着してしまった(田山花袋)のは、理由ないことではなかった。
 明治四十年から十年間に亙る旺盛な文学活動において、夏目漱石は日本文学の上に初めて、自我を批判する目をもった自我の姿を提出した。人間性のひき上げてとしての人間性観察者・批判者としてのインテリゲンツィアの意義と任務とを、漱石は作品の裡に強烈に描き出した。明治四十一年首相西園寺公望が、文士を招待して雨声会を催した時、漱石はその招待を「時鳥厠なかばに出かねたり」の一句を送って出席しなかった。漱石は日本の伝統である官尊民卑が文学の領域にまで浸潤することを快く思わなかったのであろう。感想に、文学の事がききたいのならばそのことではこちらが師匠である、そちらから出向いてしかるべし、というような意味を洩している。漱石の主観の裡では、一箇の人間として宰相と同等である自我、専門とする文学の領域においてはその分野における権威者として自己を主張した気概が窺《うかが》われるのである。
 然しながら、漱石が、人間性のより高さへの批判をもって観察した現実の自我は、社会の諸制約によって歪み、穢され、細分され、自我と利己との分別をさえ弁えぬ我と我との確執、紛糾であった。彼が晩年「明暗」を執筆していた頃の日記には、この偉大な芸術家の内心をさえむしばまずにいなかった日本文化の矛盾が露出しており、殆ど肌に粟を生ぜしめるものがある。漱石は、ブルジョア・リアリストとして自分の最高の到達点で「明暗」の驚くべき冷静、緻密な描写を運びつつ、小説を書いていると塵っぽくてやり切れない、だから詩をつくると云い、日に数首ずつの漢詩をつくっている。私に漢詩を味う力はないが、卒読したところ、それらの詩は、どれも所謂仙境に遊ぶ的境地を詠ったものが多い。白雲飛ぶところ、鶴舞い遊ぶところに、漱石は、「明暗」から日に一度ずつ逃げて行っている。もし漱石が「明暗」完結後まで生きていることが出来たとしたら、この恐ろしき矛
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