期の文学活動だけであったのではなかろうか。「佳人之奇遇」「雪中梅」等の筆者達は、福沢諭吉を新時代の大選手として、急テンポに欧化し、資本主義化しなければならなかった当時の日本の社会感情の先達となった。自由民権の云われた時代の作物が、今日なお面白く、或る気魄によって読ませるのは、筆者の全生活がかかる社会的現実の上に活きていたからである。当時の文筆家は、実際に新興ブルジョアジーが最も必要とした文明開化の輸入者、供給者、啓蒙者であった。所謂要路の大官の開化思想の方向とその実行の内容を暗示し、指導し得る立場にあった。これ等の人々は、若いブルジョア日本の建設期に、文化的な活動と文学活動との分化を未だ認識せず、商売をはじめた政治家とひとし並或は一頭角をぬいた経世家として、自身を感じていたのであった。
福沢諭吉は勿論のこと、東海散士、末広鉄腸、川島忠之助、馬場辰猪等にしろ、自身と専門的な作家、小説家の生活とを結びつけることなど夢想さえしなかったに違いない。川島忠之助は正金銀行の支配人として活躍したし、東海散士、柴四朗は農商務次官、代議士、大阪毎日新聞初代社長、外務参事官、閔妃事件で下獄したこともある。馬場辰猪は、明治四年頃ロンドンで法律を学び、自由党解散の前年「天賦人権論」を著し、獄中生活の後、渡米してフィラデルフィアで客死した。
自由党が禁圧せられ、国会開設が決定され、今日殆ど総ての作家によって理解されている日本の資本主義の特徴ある性質が組織化されてはっきり正面に押し出されて来ると同時に、文筆、言論の文化的分野には、この胎生期の奔放、自由が失われた。今日ごく手近な出版年鑑を開いて、明治初年から四分の一世紀間に亙るところを見ると、実に新聞発行の盛なのと、執筆者たちが刑罰をくって、罰金、禁獄に処せられていることのおびただしいのは誰しもびっくりするであろうと思う。それらの罪名は、殆どことごとく官吏侮辱による罪である。三木清氏等によって、明治以来、政府は文化政策というのを持たなかったと云われ、アカデミーの問題も今日そこのことからふれられているのであるが、明治初期から文化振興のための政策はなかったかもしれないが、その或る面を罰することには決して吝でなかったことが分る。
出版取締に関して未だこまかい法規が定められなかった時代の新しき日本社会で、或る種の著作が官吏侮辱という理由で罰せられたということは、何と興味ある、特質的な現象であろう。今日の情勢で大きい役割を果している日本の官僚というものが、その発生の歴史においてヨーロッパ近代諸国のそれとは異り、日本の特別な近代化の過程で生じたものであることは、長谷川如是閑氏の説明(読売、座談会)でも明らかである。明治の文化的相貌も、当時の所謂金時計に山高帽子の官員さんの全面的登場とともに、次第に変化した。新しい日本の文学が分化し、まとまりはじめた頃は、既にその作品の中に、野暮で厚かましい官員さんに対する庶民的反撥の感情(一葉)やそれに対する庶民的憧憬・追随の感情(紅葉)が反映するようになって来たのであった。普通一般人の生活感情とそれを語ろうとする文学とは役所的なもの、権力に属したものと漸く遠い懸隔を示して来たからである。が、明治文学が、その渾沌とした胎生期において、一方には福沢諭吉の「窮理図解」を持ち、他方に仮名垣魯文の「胡瓜遣」を持っていたということは、今日の文学の事情にまで連綿として実によく明治というものの複雑な歴史的本質を語っていると思う。
ヨーロッパの文明開化は、人間の合理性や社会性の自覚、人格、個性、自我の自覚の刺戟を伴って、ガス燈と共に我々の父たちの精神に入って来た。然し一方には江戸文学の伝統をその多方面な才能とともに一身に集めたような魯文が存在し、昔ながらの戯作者気質を誇示し、開化と文化を茶化しつつあった。このような形で発端を示している新しいものと旧いものとの相剋錯綜は、日本文学の今日迄に流派と流派との間に生じたばかりでなく、一人の作家の内部にも現れているのである。
坪内逍遙の「小説神髄」は近代日本文学にとっての暁の鐘であったとされている。逍遙はこの論文の中で、馬琴風な封建的枠内での勧善懲悪文学を否定して、文学における写実・客観的観察を提唱したのであった。しかも猶、この新しい写実文学の提唱者によって書かれた小説「当世書生気質」が、作品としては魯文の血縁たる強い戯作臭の中に漂っていた。
二年後の明治二十年に、二葉亭四迷の小説「浮雲」があらわれ、日本文学ではじめての個性描写、心理描写が試みられたのであった。この小説が当時の知識人に与えた衝撃は深刻且つ人生的なもので、己を知るに賢明であった逍遙が人及び芸術家としての自分を省み、遂に生涯小説の筆を絶つ決心をかためるに到ったのも、逍遙自ら率直に語って
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