術家たちの心を、私は自分の粗雑な理解ながら親しみぶかく感じて読んで来た。万葉の芸術には、高貴な方の作品もあり、奴隷的な防人の悲歌もある。万葉の時代は、日本の民族形成の過程であり、奴隷経済の時代であり物々交換時代であり、現実に今日私たちの生きる社会の機構とくらぶべくもない。万葉の精神を唱える作家自らがそれを抽象的情熱と、認めざるを得ない理由もうなずけるのである。
『読売新聞』に、この一月座談会記事が連載されていた間の或る日「てんぼうだい」に一読者よりとしての投書でのせられていた。「前略、万葉古義を拵えることも勿論立派な仕事と思いますが、而し民衆はそういう(文化的な)ものよりも、もっと生活に喰いこんだものを求めているのではないでしょうか。略」
ぼんやりした表現で書かれていたけれども、私の印象にのこった。『文学界』の座談会で小林秀雄氏は「やっぱりでたらめでもいいから嗾《け》しかける者がなきゃだめだ。(中略)やっぱり民衆のお尻をくすぐらなきゃ駄目だ。いまお尻をくすぐるような批評家が現われなけりゃ駄目だ」と力説しておられるが、民衆をどのような方面へ嗾しかけ、尻をくすぐってどうしようと云うのであろうか。
山本有三氏は或る意味で大衆に愛読されている作家である。しかしそれは、志賀暁子の公判に検事が「女の一生」にふれたからではなくて、山本氏が氏としての誠意と研究とをもってこの社会に対している真実さが、読者とこの作者とを繋《つな》いでいるからである。スタイルだけのことではない。
作家も民衆の一人として、知らしむべからず風な境遇におかれていることについて、林氏もふれている。氏は、そのことで益々大人になること、知る境遇になりたいことを刺戟されている模様である。同じような点に、島木健作氏もふれている。島木氏は、今日の作家のそのような姿こそ、そのままで却って積極的なものを語る場合がないとは云えないと云っている。唐人お吉が自分の惨めな生存そのもので当時の社会に抗議しているように、作家の惨めな姿そのものが抗議であると。
だが、このことも、自身の置かれている境遇を自覚し、抗議として生存している明瞭な意欲と、それに応じた動きがあって客観的になりたつことであると思う。
日本の文学は明らかに一つの画期に来ているのであるが、「抽象的情熱」によって日本的なものを探求しつつある作家たちが、生活の必要
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