#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られるというめぐり合わせに置かれている如く見える。最も文壇的勘の達した評論家小林秀雄氏などが彼をして存在させている文学青年を否認しようとしているのは、何故であろう。ブルジョア文壇の自解作用が、急速に進みつつあることが感じられるのである。
 文学青年と一括して呼ばれる若い時代の社会的・経済的支持の力は、彼等の苦しく逼迫する現実生活の必然から、従来の所謂文壇人の生活を負担しがたくなって来ている。このことは、文芸家協会の納金低下にも現れ、修飾のない実際問題として一部の作家のダンピング的執筆を惹き起している。新進作家の経済的困難は誰でも大っぴらに語る状態である。荒木巍氏が、最近出版された小説集の印税代りに、出版|書肆《しょし》からスキー道具一式を貰い、「滑れ銀嶺、歓喜をのせて」雪上出版記念会を行ったというエピソードは、朗らかなようではあるが、私に一つのことを想い起させた。それは、明治二十何年という時代、三宅花圃、田沢稲舟などという婦人が、短篇小説を当時の文芸倶楽部にのせた時、出版書店は御礼として半衿一かけずつを呈上したということである。
 現在、壮年になっている作家たちが、他の職業にたずさわる同年輩の男の社会的・経済的地位を観察した時、作家生活の現実は、彼の内心を暖くするであろうか。冷たくするであろうか。
 今日の社会的情勢は、日本のブルジョア作家の大部分がそこに属している小市民、中農の経済事情を極端に劣悪にしている一方、従来の文学の立前においては精神の牙城を喪っている。荒涼たる心持で周囲を眺め、大人の文学をつくり、その大人の文学によって現実社会で官吏、実業家、軍人等によって占められている支配的上層部に伍そうとしたとして、それは容易なことであるだろうか。
 フランスではユーゴーが宰相であり、ドイツではゲーテが宰相であり、イギリスで十八世紀文学を指導した文学者はそれぞれ顕職にあったという例は、今日までのところわが日本の社会では再現し難い。日本の近代社会の成り立ち、官製文明国としての特質が、日本的な現実性においてそうあらしめないであろう。
 若し、社会的条件がそれを可能ならしめるならば、例えば犬養健氏、水上瀧太郎氏等の文学が、今日在るのとは全然変ったものとして生れたであろう。単に作家的才能云々の理由ではないのである。
 私が、一
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