いえば古いタイプと常識とをもっていることを気づくのである。
小説は、最も現実の脂と匂いのきついものであるから、その作者が創作に当って地道に腰を据えれば据えるほど、作者の社会性がむき出しに現われる。プロレタリア文学にあっては、今日の階級的発展段階において一つの重圧ともいい得る他階級の既成文学の影響が、いろいろの姿をとって現実の感じかた、観かたの中にはもちろん、その具体性としての文章の上にもまざまざと反映して来るのである。
ブルジョア文学の上で文学的表現とされているようなある種の現実に対する概括法からわれわれが自由になり、真に「二つの全く同じ石ころはこの世にない」現実の核心に迫って、雑多な錯綜の関係を見とおし描き出し得るまでには、なおこれから先幾多の社会的克服が個々の作家の文学及び文学以前の実践でなければならないのであろう。
「風雲」に即してのことではないが、ある作家の持味というものがブルジョア文学では重大視される必然がある。それぞれの作家が質的の発展をとげぬ限り、階級の枠はかたくそこらの作家の才能の裾をとじつけているから、主題において進展し、拡大することには異常な困難がある。勢い、作品は、個々の作家の間に僅かずつながらにしろあるのが当然であるニュアンスの相異などを、強調したその点において翫味されなければならない。そこに独創も試みられる結果となり、作品はますます末梢的になったり、非現実性を加えたりすると思われる。
それぞれの人が、その人の声の音色で話すという自然な条件の一つとして、作品の持味がプロレタリア文学の内にもふっくりと生かさなければならないことは言をまたないであろうけれども、それが、多かれ少なかれ作品における文学的ポーズとなって定着すると、プロレタリア文学としての発展にとっては、すでに一つの対立物に転化する危険がある。作品の評価が基準を失ってされがちな時期には、このような一見平俗な危険にさえ、われわれ作家は決してさらされないと断言はされないのである。
さて、最後に再び「風雲」にかえろう。
この作がプロレタリア文化団体に関する取材であるからといって、もしこの作を「友情」や「白夜」と同じ類型に属するものとすれば、それは、杜撰であろうと私は考える。
主人公の持つ方向と、作者の意企とは、それらの作品とむしろ対蹠的なものである。然し作品として見れば失敗の部に属すものとなっている要因を、その社会的根源にまで遡って見ると、私は、歴史的にはそれが「白夜」や「友情」その他の作家たちを今日あらしめているものと同期的な線の上から発していると思わざるを得ない。その点で、作者のたゆみない鞭撻と努力とが生活の全面においてなされることを、よろこびをもって期待するのである。
もし私に煙草がふかせたら、きっとここいらで一服火をつけ、さておもむろににやにやしたであろうような情感が、今私の心のうちを去来している。それは、この「風雲」の作者はこれまで多くの評論をかいて来ているから、この一篇の小説の遭遇するであろうめぐり合わせは、いわばこの作品一つのボリュームに適当した以上に、錯雑したものであろうという感想である。いささか身にも覚えのあることとして、私はその感想を禁じ得ず、にやりともするのであるが、しかし、作者は自ら「風雲」に向って額を挙げて立っているのであるから、私は、そういうことについても、風よ吹け、吹いて古い小枝を払いおとせ、と眺め得るのである。[#地付き]〔一九三四年十二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「行動」
1934(昭和9)年12月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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