信じて誤りはないと思う。
 しかしながら、一方彼にはその出生や成長した環境及び遭遇した青年期における時代的影響もあって、気弱で、情緒的で、部分的にはやや主観に傾くところもなくはない。過去における文学修業の道で「風雲」の作者がある期間室生犀星、芥川龍之介、徳田秋声の芸術に接近したのも、前にいったような作者の一面とのつながりにおいて見れば、それが単なる偶然ではなかったことを私たちは理解するのである。作者は、古風でやかましやの学問ある医者を父に持ち、和歌や俳句は一つの伝統的文学形式としてある時代の作者の中に生きた。
 文学の道で「風雲」の作者の歩み出しはそのようなものとなったが、当時作者のおかれていた社会的現実は日給僅か一円なにがしの、小倉袴をはいた一下級雇員の日常であり、勤労階級の日常のうちに文学を愛好する青年たちの生活感情を、その頃のやりかたと内容とで作者は経験したのであったと思われる。
 作者の朝から夜をとりまく現実の力が、やがて彼の性格の積極面を正しく押し出すようになって、実践的に階級人としての移行が起るにつれ、芸術に関する道も当然新たな方向に発展せしめられた。彼は、プロレタリア文学の陣営に、過去の文学的教養のよいものや無駄なものを一緒に背負って移ったのであった。
 これは決して「風雲」の作者にだけ限られためぐりあわせではなく階級発展の歴史におけるある時期までは、すべてのインテリゲンチア、勤労者がことごとく既成の文化、芸術との関係ではそのような過程を通るのが必然であり、文学における過去の遺産の積極的継承の課題が常にいきいきとして、困難な課題としてわれわれの前に立つのも、具体的にはこの社会的必然に根ざしているものであろう。
「風雲」の作者がその青年期の前半と文学修業の道の初まりとを過した時代に、日本の勤労大衆はまだ自身の歴史的任務の方向を今日のように明確にしておらず、感受性の鋭い、精神に抗議の力をもった青年たちは階級の発展的必然に自分を結合させる機会を得るまでに、さまざまの個人的まわり道をした。
 私は、最近になって日本におけるプロレタリア文学のかつての指導者のある人たち、村山知義、林房雄、亀井勝一郎諸氏の社会的階級的行動を見て、今日の情勢におけるそれらの人々の意外と思われるような弱さの根源となっている内的なものの契機は、遠く以上のような歴史に照して観察されねばならず、それ以後の研究会はなやかであった時代の運動の特色と結びあわせて探求して、はじめて客観的土台の上から発展的に教訓をくみ出させるものであろうと考えるようになった。
「風雲」の作者が曲折ある実践によって身につけた階級人としての鍛錬と高まりとは、こんにち竹造を一篇のプロレタリア小説の主人公として自身の前にひきすえるところまで到達した。
「風雲」が主題の方向に積極性をもつゆえんであろうと思う。同時に、作者はこの一篇の小説によって、感情の質的転化というものは、どんなに永年にわたる忍耐づよい社会的実践を経なければ獲得し難いものであるかという実例をも、われわれに示している。
「風雲」の作者が、その真率でたゆみない天質によって、社会現象に対しては常にまとも[#「まとも」に傍点]から相応ずる生き方で、今日までを打ち貫いて来ていることは、作品を一読して、その基調を明かに感じるのである。それでいながら、この作者には、口を開いてそのような経験を語るとき、直接、現実の摩擦によって生じた感情の優しい風、こわい嵐を作品へふきつけることをせず、むしろその感情の余韻をめぐって縷々《るる》多弁になる癖がある。そういう場合、私どもはそこに髣髴と浮き上って来て未だ新たな内容にまで高められ切れぬままのこっている作者の過去のタイプの文学的教養を感じるのである。
「風雲」の文章の一つ一つについて見れば、それはことごとく刻苦せられている。一字もゆるがせにされておらず、それぞれの切先をもっているものであるが、全篇の効果としては、主題の立体面を余りこまかい網でかぶせてしまい、ついに作品を作者があらわすよりは遙かに簡勁でないものとしてしまっている。
 作者はこの「風雲」において、主題の継承化のために必要な文章とは全く本質において違う文脈に属する文章の俳句風な含蓄、語らずして推察させようとする省略法の誤った使用などによって、知らず知らず煩わされていることを強く感じるのである。
 島木健作氏の諸作を読んで、私は非常に多くのことを感じ、そのある作からはほとんど苦しいほどの激情を喚び醒まされたのである。その感銘から引出された重大なある疑問についてはここにふれず、「風雲」との連関で思い浮ぶただ一つは、島木氏のように新しく文学の仕事をはじめた階級人でさえも、題材の異常性にかかわらず文学の手法としては、リアリズムにしてもどちらかと
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング