ず、それ以後の研究会はなやかであった時代の運動の特色と結びあわせて探求して、はじめて客観的土台の上から発展的に教訓をくみ出させるものであろうと考えるようになった。
「風雲」の作者が曲折ある実践によって身につけた階級人としての鍛錬と高まりとは、こんにち竹造を一篇のプロレタリア小説の主人公として自身の前にひきすえるところまで到達した。
「風雲」が主題の方向に積極性をもつゆえんであろうと思う。同時に、作者はこの一篇の小説によって、感情の質的転化というものは、どんなに永年にわたる忍耐づよい社会的実践を経なければ獲得し難いものであるかという実例をも、われわれに示している。
「風雲」の作者が、その真率でたゆみない天質によって、社会現象に対しては常にまとも[#「まとも」に傍点]から相応ずる生き方で、今日までを打ち貫いて来ていることは、作品を一読して、その基調を明かに感じるのである。それでいながら、この作者には、口を開いてそのような経験を語るとき、直接、現実の摩擦によって生じた感情の優しい風、こわい嵐を作品へふきつけることをせず、むしろその感情の余韻をめぐって縷々《るる》多弁になる癖がある。そういう場合、私どもはそこに髣髴と浮き上って来て未だ新たな内容にまで高められ切れぬままのこっている作者の過去のタイプの文学的教養を感じるのである。
「風雲」の文章の一つ一つについて見れば、それはことごとく刻苦せられている。一字もゆるがせにされておらず、それぞれの切先をもっているものであるが、全篇の効果としては、主題の立体面を余りこまかい網でかぶせてしまい、ついに作品を作者があらわすよりは遙かに簡勁でないものとしてしまっている。
作者はこの「風雲」において、主題の継承化のために必要な文章とは全く本質において違う文脈に属する文章の俳句風な含蓄、語らずして推察させようとする省略法の誤った使用などによって、知らず知らず煩わされていることを強く感じるのである。
島木健作氏の諸作を読んで、私は非常に多くのことを感じ、そのある作からはほとんど苦しいほどの激情を喚び醒まされたのである。その感銘から引出された重大なある疑問についてはここにふれず、「風雲」との連関で思い浮ぶただ一つは、島木氏のように新しく文学の仕事をはじめた階級人でさえも、題材の異常性にかかわらず文学の手法としては、リアリズムにしてもどちらかと
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