波と初めてそういういきさつに立ったところを、「次の夜彼等はお互の愛を誓い合った」という一行でだけかいて避けているところも、印象にのこる。それまでの筆致の自然な勢と傾向とを、そこでは体を堅くして踏んばってそれだけにとどめているところ、そして、愛を誓いあった、という表現が何か全体の雰囲気からよそよそしく浮いているところ、それは逆に作者がそのような相愛の情景を、愛の濤としては描けない自身の感覚にあったことを思わせる。描けないものとしてわきまえる常識とその常識の故に間崎のエロティシズムも、「痴人の愛」の芸術的陶酔として白光灼々とまでは燃焼しきらないものとなっていることもわかる。
 この一篇の長篇の終りは、遁走の曲で結ばれている。さまざまに向きをかえ周囲を描いていじって来た江波から、作者はついに常識人である間崎とともに橋本先生につかまって逃げ去っているのであるが、ともかくあれだけの小説のボリュームを、作者が、主人公を東京へ逃がすことでしめくくっているのを、非常に面白く思った。小説としてはそれで何にもしめくくりになっていないわけだのに、困った作者は、一応間崎を橋本先生と東京へ落してやって、一息をついている。作者が、何か遠い地方住居の日常で東京へ行ってしまった間崎の後姿を感じている感じかたを、面白く思った。自分の愛する若者もとうとう東京へ行ってしまった。そのことで境遇の絶対の変化を自分に云いきかす地方の娘の心理と通じるものが全くそこにないと云えるだろうか。
 フランスの作家が途方にくれると、よく主人公をアルジェリーへ旅立たせてしまう。東京暮しの作家は同様の場合、とかく軽井沢だとかアルプスだとかを思い浮べるらしい。そして、多くの場合そのいずれもが、作家としての降服の旗じるしであることが自覚されている。
「若い人」の終りにしろ、その本質は同じであるが、ずっと終りまで読み、本を伏せ、「麦死なず」「闘犬図」その他の作品にあった空気を思いおこし、つづいてこの頃の石坂氏の短篇にある空気を思い合わせたとき、この作者のこれまでの作品の世界の色合い、雰囲気と地方での生活というものとが、案外に深い血肉性で作用しあっているのではないかと感じられて来た。
「麦死なず」という作品にふれての評のなかで、或る時代の地方における文化のありようを、この作者がつよく描いていると云ったのは窪川鶴次郎であったと思う。そ
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