にはわたしたちの心をひきつける人生の姿がまざまざと描かれているが、わたしたち自身が自分で文をつくり出してゆく時は、原稿紙のわきにどれほど傑作をつみあげておいても何の役にもたたない。それどころかわたしたちは不思議なことを発見している。人生を深くとらえて描き出し、読む人の心をひきつける作品というものは、奇妙な力をもっていて、読者がまじめに、その作品の世界に入ってゆけばゆくほど、ますますひろく、ますます深く、日頃は何となくすぎてきた自分の生いたちや親たちの人生、いまの自分の生活とその中にあるいくつかの問題などについて、はっきり眼をさまさせられてくるものである。これは、おそらく小説を書こうという気持をもっているすべての人が、しっかりした作品を読んでゆく間に経験している心持であろうと思う。いい作品はその作品の世界がわたしたちの生活をひろくゆたかにするばかりではなく、わたしたち自身の生活を見直させ、自分として是非これはかいて見たいと思うテーマを発見させさえもする。
小説のおもしろさ、がここにあり、文学が、人生の教師であると云われることの意味も、ここにある。よい小説にひきこまれるおもしろさは、ただつぎにくりひろげられる情景の変化につれられてゆく気持ばかりではない。事件の発展につれて登場しているいくたりかの男女は、それぞれに人間としての心のかぎりをつくして行動し、事件そのものに捲き込まれていながらも、同時に事件そのものを判断する関係におかれている。その過程が読むものの心にまた独特の反響をよびさましてゆく、そのおもしろさである。言葉をかえていえば、わたしたちはその作品の世界にひきこまれることで、自分だけの日常には経験されていない人生の複雑な諸関係の間を通過しながら、自分だけの生活では自覚されていなかった社会関係、そこから生じる人間感情の葛藤と進展と批判をみいだすのである。わたしたちはそういう意味で、しっかりした文学作品をよむときには作品の世界の展開につれて、同時的に自分の生活の風景とその地理とを知らず知らずのうちに対比し、同時的にみなおし、評価してゆくという精神の労作を経験する。生活と文学の深い根がここにある。漫才や軽音楽やカストリ小説の、時にとってはおもしろいかもしれないけれども、感覚の中をただ通りすぎてゆく間だけの気紛らしとは全く質のちがう文学の存在意義がある。
モーパッサンの「女の一生」は、こんにちも多くの人によまれている。特に日本では「女の一生」の主人公ジャンヌの運命は、まだまだ多くの婦人の運命につながったところがある。今日「女の一生」を読む日本の若い婦人たちは、あわれなジャンヌに同情し、憲法の文字の上だけ変っても、現実にのこる婦人の社会的な無力さについて痛感するであろうが、そこまでは誰でも同じだとして、それから先に、現代の日本の若い婦人のうちにあるいくつかのタイプがそれぞれのちがいをもって社会的反応を表してくるだろう。
即ち一つのタイプはモーパッサンがこの小説を書いた時代(一八八三年)と一九五〇年の世界――その中でのフランス、その中での日本の歴史は非常に変化して来ていて、社会の現実はちがっていることには大して注目しないで、ごく大まかに、やっぱり女の人生ってどこの国でも同じなのねえと嘆息し、ぼんやりと、わたしはこんな一生は欲しくない、もっとたのしい女の人生だってあっていいわけだわとジャンヌの末路をおそろしく感じる。
こういう受けとり方をする人の生活そのものを突っこんでみると、その人にとっては人生そのものが大体小説のよみかたに似た風に感じとられ、運ばれていることを語っているともいえる。女の悲惨な運命に対してそれをいやがり拒絶したい気持はもとよりあるけれども、それならばといって積極的にこの社会での、婦人の立場をより希望のある楽しい人間らしいものにしてゆくために、自分としてはどの点をどうしてみようという主動的な決断と行為がなくて、結婚についても、不幸になりたくないという漠然とした最低線を感じているような人である場合が多い。組合の中でいえば、それは資本家はひどいけれど、わたしたちの技術だってまだ男なみでないんですもの、というように、現象だけをとらえて、社会関係の本質まではっきりとつかまない人々であるかも知れない。
第二にはこういうタイプが考えられる。その人は文学作品もいろいろよんでいて「女の一生」のほかに「復活」もよみ、スタンダールの「赤と黒」もよみ、レマルクの「凱旋門」もよみ、「風とともに去りぬ」もよんでいるとする。同時に「たけくらべ」「にごりえ」をよんだことがあるし、「あぶら照り」「妻の座」も読んでいるとする。「伸子」を読んでいるかもしれない。そしてこれらのすべての作品をそれの書かれた時代の順にくらべて考えてみる力ももっている。
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