矛盾、衝突の問題が考えられずにはいない。なぜなら、「この心の誇り」の男主人公は、無駄な時間をトランプ遊びについやして、空虚に愛情ばかりをせがんでいる妻をもつ科学者だった。彼は自分の仕事に助手として働く若い婦人に自分の生涯をかけた仕事と人生の真実なみちづれをみ出してゆく。そしてそこに新しい生活がきずき直された。
こういう小説のテーマは第二次大戦前においては、日本の文学にとっても、ある新しい社会的意味をもっていた。けれども、こんにちのとくに日本で、生活を現実的にたたかっている職場の若い婦人が、男の側からの人生の再要求とでも云える、「もっと新しい内容での結合という進歩的な意義」との説得に、新しい愛人としての優越感ばかりで誇らかであり得るだろうか。職場で働き、職場でたたかいつつある若い独立した婦人であったらばこそ、女の上に新鮮な意志と情感が花咲いていた。もしせまい家庭にかがまって夫に依存する女になったら、急に色あせ、しぼむことはないものだろうか。二人で働いて、たたかって生きてゆこうというのならば、きょうの日本では、まだまだ婦人よりも「家庭をもつ」男性の感情のなかに整理されなければならないものがある。「家庭」がそれだけ魅力であり、それだけ大きい負担であるという現実は、日本の社会施設が働いて生きている男女とその子供、老人たちにとって安心と幸福とを与えるものでないという証拠にほかならない。一人の初々しかった二十歳の女性がきょうまで十五年の間に、頭も胸も硬くこわばって、三人の子供の母として日常生活の中に灰色になってしまったからと云って、そのこんにち、二十歳の新しい婦人が一人の女をそのようにあらせてしまったそのままの男と、そのままの社会と組みあわされたとして、その十五年後に、かつてはみられなかった彼女の顔の上に見られるものは何だろう。その十五年の後に、一層しっかりと人間らしさを発展させた自身を彼女が見出そうとするならば、過去の年月の間で一人の女性を化石させてしまった家庭というもののありかた、夫というもののありかたそのものを、日本の社会の問題として批判し闘ってゆく男の新しい社会観念とともに、出発しなければならないだろう。そして、たくさん、自分とあいての人とのもつ矛盾にぶつかってゆくだろう。もし彼女と彼とが人間らしければ、それらの絶え間なくおこる矛盾をお互の間で、またお互と外部との間で前進的に社会的に解決してゆこうとする張りあいのうちにしか、いわゆる幸福とか歴史的価値への信頼というものはないことをも発見してゆくだろう。
このような一つの例は、小説を書こうとする若い女性に、あるいは若い男性に、文学の創作方法がもっている生きた歴史を会得させるきっかけにもなるかも知れない。平凡な物憂い夫婦生活と、はんこで押したような勤め先の仕事。そのものうさを人生の姿としてそれなりに訴えずにいられなくて、書きはじめられた小説が、考えすすみ書きすすむままに、やがて次第にすべてそれらのものうさの原因を、主人公の内部にあるものと、外の社会とのありかたとの関係のうちに批判をともなって、発見されてゆきはじめる。リアリズムは批判的なリアリズムと成長しずにいない。そして、その批判が、組合の仕事や日本の国内、国外の社会事情についてより科学的な知識をひろげてゆくにつれて、愛情そのものさえ歴史の脈動とともに性格づけられるものであることが発見されてくる。ただイデオロギーとして社会主義が分ってきたばかりでなく、人間は幸福を求めているというなまなましく根強い実感、熱情そのものとして個人の人生も歴史の展望の中に見とおされて来たときの社会主義的リアリズムの創作方法。
文学の創作方法が社会の歴史の発展につれて、階級社会の認識の確立とともに、そして新しい形態での人民社会の建設の成果とともに、一歩一歩とより広い展望におしすすめられて現在に至っていることは、一人の個人の社会と人生と文学の世界の見とおしとひろがりについて見ても、実によく分る。今日の社会で過去の私小説の現実のつかみかた、書き方では、主人公一人の実感さえ、それが現実にある複雑さではとらえきれなくなっている、これは明瞭である。
現実のいりこんだ関係がこんにちのように複雑になると、これまでのせまい創作方法ではその全部の内容をいちどきにつかみとることができなくなって、リアリズムなんかは古くさい、何かもっと現代をがっしりつかむ創作方法を、という要求も起る。日本のジャーナリズム小説の大半を占めている風俗小説――中間小説とよばれている作品の作者たちは、戦後の日本のどっちを見てもバラック、ガタガタなあさましい世相を、これまでの私小説的手法ではうつしきれないと、そこからとび出た形として主張している。
なるほど私小説、心境小説の限界は、はっきりしている。
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