ンの「女の一生」は、こんにちも多くの人によまれている。特に日本では「女の一生」の主人公ジャンヌの運命は、まだまだ多くの婦人の運命につながったところがある。今日「女の一生」を読む日本の若い婦人たちは、あわれなジャンヌに同情し、憲法の文字の上だけ変っても、現実にのこる婦人の社会的な無力さについて痛感するであろうが、そこまでは誰でも同じだとして、それから先に、現代の日本の若い婦人のうちにあるいくつかのタイプがそれぞれのちがいをもって社会的反応を表してくるだろう。
即ち一つのタイプはモーパッサンがこの小説を書いた時代(一八八三年)と一九五〇年の世界――その中でのフランス、その中での日本の歴史は非常に変化して来ていて、社会の現実はちがっていることには大して注目しないで、ごく大まかに、やっぱり女の人生ってどこの国でも同じなのねえと嘆息し、ぼんやりと、わたしはこんな一生は欲しくない、もっとたのしい女の人生だってあっていいわけだわとジャンヌの末路をおそろしく感じる。
こういう受けとり方をする人の生活そのものを突っこんでみると、その人にとっては人生そのものが大体小説のよみかたに似た風に感じとられ、運ばれていることを語っているともいえる。女の悲惨な運命に対してそれをいやがり拒絶したい気持はもとよりあるけれども、それならばといって積極的にこの社会での、婦人の立場をより希望のある楽しい人間らしいものにしてゆくために、自分としてはどの点をどうしてみようという主動的な決断と行為がなくて、結婚についても、不幸になりたくないという漠然とした最低線を感じているような人である場合が多い。組合の中でいえば、それは資本家はひどいけれど、わたしたちの技術だってまだ男なみでないんですもの、というように、現象だけをとらえて、社会関係の本質まではっきりとつかまない人々であるかも知れない。
第二にはこういうタイプが考えられる。その人は文学作品もいろいろよんでいて「女の一生」のほかに「復活」もよみ、スタンダールの「赤と黒」もよみ、レマルクの「凱旋門」もよみ、「風とともに去りぬ」もよんでいるとする。同時に「たけくらべ」「にごりえ」をよんだことがあるし、「あぶら照り」「妻の座」も読んでいるとする。「伸子」を読んでいるかもしれない。そしてこれらのすべての作品をそれの書かれた時代の順にくらべて考えてみる力ももっている。
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