、忘れたり、混乱したりする知覚的な不確さに抵抗する人間の分別からおこっているということは、わたしたちに、文学というものが本来ふくんでいる、厳粛な価値を考えなおさせると思う。太古の民族伝説が初めて文学にうつされたときは、その民族にとって驚異の祭日であったにちがいない。
民族文字をもっていないアイヌには、こういう伝説がある。昔、アイヌ族が繁栄していた時代には、アイヌも立派な民族文字をもっていた。ところが、アイヌの住んでいた日本へ侵略して来た民族が、字をしまっておいた唐びつを掠奪した。そして、アイヌはこんにち自分の字をもっていないのだ、と。
この伝説は、圧迫を蒙って来た少数民族の嘆きと憤りとを語るばかりだろうか。わたしには、そればかりと思えない。もしわたくしたちの生活に毎日毎夜うけいれている文字のすべてが、独占資本の権力によって廻転されている印刷能力からうちのめされて来る文字だけであるとしたら、数千万の文字そのものを、それなりでわたくしたちの文学の文字ということができるだろうか。
文学に大切な実感はこのように基本的な文字そのものの性格の検討にまで及んで行かないわけにゆかない。
人類のもつ美しく立派な文学の一つでもが、何かの意味で無情な破壊力の抗議であり、人間の訴えと欲求に立っていないものがあっただろうか。
世界文学の中に日本の現代文学がどういう価値をもつかということは、決して「細雪」をもっていることだけでは計られない。新しい歴史がひらけたアジアで、独特な辛苦の立場におかれている島国・日本の人民が、どのように自身を世界平和かくらんのために使役されることからまもり、自身と世界の良心のために、これまでだまっていたつましい人民が、どんなにいろいろさまざまの現実について発言しようとしているというところに、これからの日本の人民の文学の評価のよりどころがある。そのような文学の細目が、しだいに日本の文学史を変革してゆくであろう。[#地付き]〔一九五〇年三月〕
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
1952(昭和27)年5月発行
初出:「入門文学講座 第三巻」新日本文学会
1950(昭和25)年3月
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