く唇をかんだ。口許を力ませるような表情で、濃い睫毛を伏せ、針を運んでいる重吉のうしろに、ひろ子はまざまざと牢獄の高い小さい窓を見た。そこに鉄格子がはまっていて、雲しか見えず、オホーツク海をわたって吹く風の音しかきこえない高窓を見た。その下に体の大きい重吉がはげた赭土色《あかつちいろ》の獄衣を着て、いがぐり頭で、終日そうやって縫っている。重吉の生きている精神にかけかまいなく、それが規則だからと、朝ごとに彼に向ってぶちこまれるボロ。どんな物音も立たない、機械的な、それだから無限につづいてゆく、惨酷さ。まるで、感傷がなく、ユーモアをもって縫っている重吉が、最後の糸どめをするのをひろ子は待ちかねた。そして、
「見せて」
 手にとりあげて、それを見た。針めがそろっている。ひとつびとつは不器用な針目だが、それは律気にそろっている。そろった針目は、ひろ子の目に、重吉が坐らされていた板じきの上の薄べりの目とも映った。
「うまいだろう?」
「うますぎるわ、でもね、わたしはもう一生あなたには針はもって頂きたくないわ」
 ひろ子は立って行って硯箱《すずりばこ》をもって来た。
「これはこうしておくの」
 その日の日づけをかいて、和裁工石田重吉記念作品と、つぎきれの上に書きつけた。
 さきへ二階へあがって、ゆっくり床をのべながらひろ子は、朝からのことを思いかえした。すべてのことが、重吉に云われた後家のがんばりを中心に思いめぐらされるのであったが、並んだ二つの臥《ふし》床を丁寧にこしらえて行くうちに、ひろ子の心に、次第に深まる駭《おどろ》きがあった。ひろ子にとって、ずばりと後家のがんばりを警告してくれるのが、良人である重吉よりほかにない実際だとすれば、本当に後家になった日本の数百万の妻たちには、誰が親身にそのことを云ってくれるのだろう。一生懸命に暮せばこそ身につきもするそういう女のがんばりについてその一途さにねうちがあるからこそ、一方のひずみとして現れるがんばりは、もっとひろやかで聰くより柔和なものに高められなければならないのだと、誰が、良人のいない、暮しのきつい後家たちに向って云ってくれるのだろう。そして、がんばらずに生きられる条件を見出してくれるのだろう。それを思うと、自分をこめて、ひろ子の眼ににじむ涙があった。
 床の上に立って着換えをする重吉に、寝間着の紐をわたしながら、ひろ子は、愛称のようにゆっくりと、
「石田さん」
 重吉の姓をよんだ。
「わたしは、あなたから後家のがんばりを云われるのだと思うと、本当の後家さんにすまないように思うわ。知っていらっしゃる? つやちゃんだって後家さんなのよ」
 重吉の弟の直次は、広島で戦死したのであった。

        三

 遠い郊外へ出勤する重吉の外出が、段々規則的になり、来客が益々ふえ、隠されていた歴史の水底から一つの動きが、渦巻きながらその秋の日本の社会の表面に上昇しはじめて来た。十月十日に解放された徳田・志賀の名で発表されたパンフレット型の「赤旗」は重吉がかえって間もなく出版され、広い範囲での話題となっていた。其を読むほどの人々は、様々な期待、要求、満足、不満足に、おのずからこの十数年間濃くされて来た個人個人の気質や生きこしかたの色と匂いを絡み合わせて、其について語っていた。忙しくなってゆく迅さは、重吉が市中の混雑や、つっけんどんな乗物の出入りに馴れるよりも急速であった。永年長い道を歩いたことのなかった重吉は、怪訝《けげん》そうに、
「変だねえ、どうしてこんなところが痛いんだろう」
 靴下をぬいで、ずきずき疼《うず》く踵をおさえた。
「やっぱり疲れるんだろうか」
「そうですとも! あれだけの間に、わたしたちが会って話の出来た時間が、一体どの位あったとお思いになる? たった百八九十時間ぐらいよ、まる八日ないのよ。ですもの……およそわかるわ、一日にどんなに少ししか歩かなかったか……」
 前の晩、おそくまでお客があって、その朝、ひろ子は、起きぬけからすこしあわてた。重吉は、入念に新聞をよみ、紙を出して何かノートを書きつけ、その間には荒れている庭を眺めて、
「あの樽、何か埋めていたのかい」
 掘りだしたまま、まだ槇《まき》の樹の下にころがされている空樽に目をとめたりした。西日のさす側の枝から見事に紅葉しかけている楓《かえで》が秋の朝風にすがすがしかった。
 弁当を包んでいると、置時計を見た重吉が、俄に、
「ひろ子、あの時計あっているかい」
と云った。
「あっていると思うわ」
「ラジオかけて御覧」
 丁度中間で、いくらダイアルをまわしても聴えて来る音楽もなかった。重吉は、いそいで紙片をまとめて身支度にとりかかった。ひろ子は、急にとりいそいだ気になって、
「一寸待って。わたし、まだなんだから」
 もう一つ自分の弁当をつめた。その日は、ひろ子も同じ方角に出かけなければならないのであった。一緒に出かけようとばかりせき立って、ひろ子が食卓のまわりでのぼせていると、重吉が、
「ひろ子、ここが駄目だよ」
 ぶらぶらしてはまらないカフス・ボタンの袖口をつき出した。洋服を着はじめてから日のたたない重吉には、あちこちで止めたり、しめたりするボタンやネクタイが苦手で、支度にはいつも閉口した。シャツのカフスがどう間違えて縫ったものか特別せまくて普通にボタンをとめてからでは手をとおしにくかった。
 ひろ子は、友人の贈物である綺麗な細工のボタンを、粗末なシャツのカフスにとめた。うしろの衿ボタンも妙になってカラーがさか立っている。重吉は自分のまわりを動くひろ子の頭越しに時計を見ながら、いかにも当惑したように、
「時間がないな」
と云った。
「九時半までに必ず行かなけりゃならなかったんだ」
「まあ! あすこまで二時間かかるでしょう。困ったわ。それなら、はっきり云っておいて下さればよかったのに。――いつも通りかと思った」
 なおあわててひろ子は、半分ふざけ、半分は本気で重吉の大きい体をつかまえ、少し荒っぽく、
「――こっちを向いて」
 カラーをつけ、
「こんどはこっち」
 これを前でとめネクタイをしめさせた。
「自分でカフス・ボタンもつけられないなんて、わるい御亭主の見本なのよ」
 重吉は迷惑げに、あちこちまわされて、支度が終ると、すぐ出て行った。上りぐちで、
「おいてきぼりになっちゃった!」
 そう云いながらひろ子が、重吉の帰る時間をきいた。
「何時ごろ? いつも頃?」
 これも貰いもののハンティングのつばを、一寸ひき下げるようにして、重吉は無言のまま大股に竹垣の角をまわって見えなくなって行った。ひろ子は、暫くそこに佇んだまま、むかごの葉がゆれている竹垣の角を眺めていた。重吉は、口をきかずに出て行った。意識した手荒さでまわした重吉の体の厚みが、手のひらに不自然に印象されて、それはひろ子のこころもちをかげらせた。
 自分の用事がすんで、ひろ子が帰ったのは五時すぎであった。御飯をたくことと、おつゆのだし[#「だし」に傍点]をとっておくことだけをいつも頼む合い世帯のおとよ[#「おとよ」に傍点]に、
「ただいま。――石田、かえりました?」
 ききながら、ひろ子は上り口を入った。
「まだですよ」
「そう。――」
「だし[#「だし」に傍点]は七輪にかけてありますから……どなたかお客さまです」
 がらんとした室に、ひろ子の又従弟《またいとこ》に当る青年がひとりで坐っていた。樺太の製紙会社につとめている父親や、引上げて来た母親、子供たちの様子をきいたりして夕飯のしたくが終ったとき、敷石の上を来る重吉の靴音がきこえた。
 ひろ子は、上り口へかけて出て行った。
「おかえりなさい」
 重吉は黙って、踵と踵をこすり合わせるようなやりかたで靴をぬぎすてて上り、ハンティングを、そこの帽子かけにかけた。いつもの重吉は、書類入の鞄から帽子から、ひどくくたびれたときには、その場で窮屈な上着までひろ子の腕へぬぎかけるのであった。
「けさはよっぽどおくれて?」
「一時間ばかりおくれた」
 青年のいる室へ入って、重吉は、簡単に挨拶すると、そこに来ている雑誌の封をあけて目をとおしはじめた。
「お着かえにならないの」
「…………」
 重吉は、洋服のまま、どうしたのか、ひるの弁当があまっていたのを鞄から出して、先ずそれをたべはじめた。
「どうして?――こっち上ればいいのに」
「いいんだ」
 つとめて、ひろ子は若い又従弟と口をきいて食事をすませた。重吉は、すぐ、
「あがるよ」
 鞄をもって、二階へ登って行った。とりのこされたひろ子は体じゅうがよじれるように苦しくなった。
 行ってみると、重吉はぬいだシャツや服を机の上につみ上げて、そのよこのところに本をのせて見ていた。ひろ子は、みんなどけてそれを衣紋竿《えもんざお》につるした。
「――ね、どうなすったの?」
「どうもしない」
「いいえ。こんなのあたりまえじゃないわ……いつものようじゃないわ。ね、どうして?」
 重吉は椅子の上で顔を横に向け、ひろ子を見ないようにしている姿勢のまま、
「どうもしない。きょうから、何でもみんな自分ですることにきめたんだ」
と云った。
「…………」
「すっかり、考え直したんだ。何の気なく、してくれるとおりして貰っていたんだが。俺も甘えていたんだ。――わるい亭主の見本だと思われているとは思わなかった」
 冗談よりほかの意味はありようもなく云った言葉が、重吉をそんなに傷《きずつ》けたことが、ひろ子をおそれさせた。
「御免なさい。わたしふざけて云ったのに――」
「――しかし、ひろ子はしんではおそらくそう感じているところがあったんだ。……世間には良人のことは何でもよろこんでする細君もあるんだろうが。――自分のことを自分でするのはあたり前なんだから、もうすっかり自分でする――監獄じゃそうしてやって来たんだ」
 ひろ子は、思わず重吉の両肩をつかまえた。
「変よ、監獄じゃ、なんて! それは変よ!」
 涙をあふらしながら、ひろ子は恐怖をもって感じた。どういう複雑な動機からか、ともかく重吉は、ひろ子が想像出来るよりも遙かに深い幻滅のようなものを、二人の生活について感じたのだ、ということを。ひろ子は絶望感からそのまま立っていられなくなった。前の畳へ崩れこんで重吉の膝の上に頭を落した。
「考えて頂戴。あなたのことはあなたがなさい、というような心持で、どうして十何年が、やって来られたのよ」
 ひろ子がそんな石のような女で、身のまわりのことにも今後一切手をかりまいと思いきめたなら、その重吉にとって、ひろ子の示す愛着は、どんな真実の意味があり得よう。二人の自然な愛情はなくて、重吉が決して惑溺《わくでき》することのない女の寧ろ主我刻薄な甘えと、ひろ子がそれについて自卑ばかりを感じるような欲情があるというのだろうか。
「あんまり平凡すぎる!」
 ひろ子は、激しく泣きだしながら頭をふった。
「わたしは、いや! こんなの、いや! あんまり平凡だ」
 それにしても、ひろ子には分らなかった。重吉が、こんなに永年の間、互に暮して来たあげく、突然、云ってみれば、今瞼から鱗《うろこ》が落ちた、という風にそれほど深い幻滅を発見したというのは、どういう理由があるのだろう。重吉もひろ子も、劣らず自然なままの生れつきであったから、一方で離反して、一方で繋がれてゆくというようなゆがんだ人工の夫婦暮しは出来なかった。真実重吉の幻滅がとりかえせないものならば、それはひろ子にとっても、これからの生活は成り立たないということなのであった。
 ひろ子は泣きながら、泣いている自分の頭が重吉の膝の上にあること、重吉はそうして泣くひろ子を、自分から離そうとしていないことを、とりすがる一本の綱のように鋭く感じた。ひろ子のこの苦痛の深さに、一心に暮した十二年の歳月が折りたたまって投影しているとおり、重吉の索漠たる思いにも、同じ長い年月に亙って生活して来た彼のひどい環境の照りかえしが決してないと、どうして云えよう。
 閃く稲妻のようにひろ子の心を一つの思い当りが走った。
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