だ馴れない重吉が、大きな体をおとなしく小づかれたり、押しつけられたりするのを見るのは辛かった。重吉は、自分が痛感する荒っぽさをひろ子の身にそえて、乗物がこむと、しきりにひろ子をかばった。今もそれで、二人のあがきが却ってわるかった。
「ね、わたしはいいのよ、ここでうまく立っているのよ」
池袋で、長い列につながって省線の切符を買い、乗りかえた。思いがけず、一つ空席があった。ひろ子は、無理に重吉をかけさせた。
「今は、あなたの方がくたびれやすいのよ」
揉まれた重吉の顔に疲労があらわれている。
「腹がすいて来たね」
重吉は、ひろ子を見上げて苦笑した。
「もう?――でも、おそいこともおそいわね」
「こんどは、夜の弁当ももって来ようよ」
「そうね」
暫くだまっていたが、やがて重吉が、
「ひろ子」
と呼んだ。
「なあに?」
つり革へ手の先だけをのこして、ひろ子は重吉に顔を近づけた。
「『一塊の土』という小説があったろう?」
「あるわ」
芥川龍之介の作品としては、自然主義風なものとして人々に記憶されている作品であった。
「覚えているかい」
「あらましは覚えているつもりだけれど……何故?」
宵のこんだ電車の中で、何故『一塊の土』が思い出されたのだろう。
「あれは、後家の女主人公が、うんと働いて稼ぐけれども、それで自分もはたも不幸になってゆく話だったろう?」
「そうだわ」
ちょっと黙って、重吉は、ごく普通な調子で座席からひろ子を見ながら、
「ひろ子に、なんだか後家のがんばりみたいなところが出来ているんじゃないか」
と云った。
余り思いがけなくて、ひろ子は、眼を見ひらいて重吉を見つめた。
「わたしに?――」
後家のがんばり。……後家のがんばり。……その辛辣さがこたえて、ひろ子の目さきがぼーっと涙でかすんだ。ふるえそうになる声をやっと平らかに、ひろ子は重吉に聞いた。
「あなたに対して、わたしにそういうところがあるとお感じになるの?」
「僕に対してというわけじゃないさ。――一般にね」
「いろんなやりかたで?」
「まあそうだね」
たとえば、きょう自分たちがこうやって研究所へ出かけ、ひろ子とすれば重吉が帰って来ているからこそと思うたっぷりした一日をすごした。その間に、自分はどんな後家のがんばりを示したのだろう。愉しそうにしていた重吉が、何のはずみでそれを感じたのだろう。せわしく朝からのことを思いかえして見ても、ひろ子には重吉にそれを云い出させたきっかけ[#「きっかけ」に傍点]を自分からとらえることは出来なかった。しかも、後家のがんばり、という言葉にふくめられているものは、バカと云われたより、だらしなしと云われるよりひろ子にとって苦痛であった。人生のずれたところへ力瘤《ちからこぶ》を入れて、わきめもふらない女の哀れな憎々しさ。それが、この自分にあるのだろうか。帰って半月もたたない重吉からこんな電車の中で、それを云われなければならないのだろうか。こらえても、涙があふれた。涙をこぼしながら、ひろ子は、大きいリュックを背負った男にうしろからぎゅうぎゅう押されていた。
「――どうした?」
つり革にさがっている方の元禄袖で、重吉から半ば顔をかくすようにして黙りこんでしまったひろ子を重吉は見上げた。
「しょげたのかい?」
ひろ子は合点をした。
「しょげることはないさ」
「……あんなに、貞女と烈婦には決してなるまいと思って暮して来たのに――」
ひろ子は、このとき重吉のとなりにかけている中年男が自分たち二人の言葉のやりとりに関心をもってきいているのを知った。同時に、自分が、涙っぽくしかこの話にふれられない今の感情のひよわさを自覚した。それにしても、どうして、よりによって重吉は、この混雑の中でこんな話をしはじめたのだろう。ひろ子は、気をとり直し、元禄袖のかげから顔を出して、重吉の耳のそばへ囁《ささや》いた。
「ここは、あんまり話しいい場所じゃないわ。そうでしょう? 降りてから。ね……」
「――そうか」
重吉は、ひろ子の気もちや周囲の状況が、はじめてわかったという風に、無邪気におかしそうに笑った。
「でも、どうして急におっしゃるの?」
「どうしてってことはないが、考えたからさ――どうせほかにすることがないんだからこんなとき話しといた方がいいだろう?」
「大抵の人は、こんなところでは話し出さないと思うわ」
ひろ子は、小さくほほえんだ。
「それに……いまはあなたもわたしも、おなかがすいているでしょう? わたしはどうしても、これになってしまうからね」
ひろ子は、指さきで頬っぺたを涙がころがりおちる形をしてみせた。
西へ向って真直に二本、アスファルト通がとおっている。左右は、おそろしく高い切り通しの石だたみで、二つの崖をつなぐ鉄の陸橋が、宵空に太く黒く近代都市らしい輪郭を浮き出させている。この高台は、昔東京の海がずっと深く浅草附近まで入りこんでいたそれより昔、武蔵野の突端をなして、海へきっ立っていた古い地層である。
低地にひろがった尾久方面も、高台も、今は一面の焼け野原となっていた。アスファルトの道ばたには、半分焦げのこった電柱だの、焼け垂れたままの電線、火熱でとけて又かたまったアスファルトのひきつれなどがあった。焼トタンのうずたかい暗い道の上で、通行人は互に近づく黒い影を目じるしにしてよけあってとおっていた。
「――暗いねえ」
ゆっくりした足どりをなおおそくして、重吉がおどろいたように云った。
「大丈夫かい?」
「大丈夫よ。暗いけれどこっちの道は案外いいのよ」
「それにしても――こんなところを、ひろ子一人でなんか歩いちゃ駄目だ」
二人で歩ける今、重吉が、一人でなんか歩くなと云ってくれるこの夜道を、ひろ子はこれまで幾度ひとりで通らなければならなかったろう。リュックを背負い、もんぺにはいた靴をふみしめ、つよく振る手で薄気味わるさを追っぱらうように力んで、通った。自分のその姿が、はっきりひろ子の心に浮んだ。その姿を仔細に追ってゆくと、そこには電車の中で重吉が不意に云い出した批評につながる自分の在ることが、ひろ子自身にもさとられるような気がするのであった。
「さっき電車の中でしかけた話ね、覚えていらっしゃる?」
ひろ子が訊いた。
「後家のがんばり、かい?」
二人が話しやめたその位置で、重吉は、はっきりと又その表現をとりあげた。
「わたしには、ね。どうしてああ急におっしゃったのか、きっかけが見つからないのよ。さっきから考えているけれど。……でも、きっとそういうところが出来ているんでしょうね」
たとえば同じ夜の道を、こうして二人で歩いている。その歩きぶりも心持も、一人で出来るだけ早くといそいで歩いているときと、どんなにちがうことだろう。ひろ子はそれも一つの例として話した。
「自分でどこをどうがんばっているのかわからないところが、つまりくせものね」
「心配しなくてもいいんだ。ただ、これまでひろ子は、云わば一人ぼっちでがんばって来たんだから、どうしても、そういうところも出来たのさ。又それだからこそ、もったというようなところもあるんだし。――しかし、もう条件が変ったんだからね……そうだろう?」
「ほんとねえ」
うれしい方へ条件が変って僅か半月ばかりのこの頃。それにくらべて条件が変るとすれば、より悪くしか変りようのなかったこれまでの十数年間。
「なんて云っていいか分らないようだわ。一層、一層、あなたの細君であろうとして、そのために、そんながんばりが身につくなんて、……」
「ああいう時代だったんだから無理もないさ。どっちを見ても崩れていて生活の基準がなくなった中で、謂《いわ》ばそれを自分から押しやることで、どうやら自分を真直にもって来たというところもあるんだから」
話しながら二人がのぼりかかっていた大きい勾配の坂の中途で重吉が立ちどまった。そしてひろ子に訊いた。
「この坂は、どの坂だろう」
「――どの坂って?」
「もとの家へゆくのに、いつも通った坂があったろう? あれはどの坂かい?」
「ああ、あれは、この坂よ」
「これっぽっちの狭い坂だった、あれかい? ごちゃごちゃ店なんか並んだ……」
「そうなのよ。すっかり変っちゃったでしょう。あの頃はまだずっと急だったしね」
「そうか!」
さも合点がいったように、
「それでやっとわかった」
重吉は又歩き出した。
「帰って来た日、むこうの角から入ってこの坂まで来たんだよ、多分この見当だと思うのに、坂の様子がまるっきりちがうもんだからそれで又すっかり迷っちゃったんだ」
ひろ子たちが今住んでいる弟の家は、その坂をのぼって少し行った焼けのこりの一郭にあった。十月十四日の朝、網走から上野へついた重吉は、十三年前ひろ子とはじめて持った家を目当にさがして来て、三時間もその辺をぐるぐる迷ったのであった。
おそい夕飯をすましてから、重吉は、ひろ子が重吉の家からもらって来ていたはったい粉[#「はったい粉」に傍点]をたべている。もとは客間に使われていた洋風板じきの室に食卓を入れて、食事にもお客用にも使って二人は暮しているのであった。
格別、彼のために新調されたのでもない座布団の上にあぐらをくんで、うまがって、はったい粉[#「はったい粉」に傍点]をたべている重吉を、ひろ子は、飽かず眺める、という字のままのこころもちで見まもった。
今夜に限らず重吉と一緒に食卓に向っているとき、ひろ子の心にはいつも真新しい感動があった。こんなに自然な男である重吉。簡単な、いもの煮たのさえ美味《おい》しがって、友達と一緒に妻と一緒にたべることを愉快がる重吉。自然なままの人間に、こわらしい罪名をつけて、たった四畳の室へ何しに十二年もの間、押しこんで暮させたのか。そこにどんなよりどころがあったのか。権力だからそれが出来たというならば、その不条理が不審でたまらないのであった。
「もういいの?」
「ああ、もういい」
「――さっきの話――あの、がんばりのことだけれど、よく云って下すったわね」
重吉は、ちょっと改まった視線でひろ子を見ていたが、
「でも、さっきひろ子は泣いたんだろう」
いくらか、からかい気味に云った。
「それは泣いたわ。泣けるのがあたりまえよ。そうじゃないの。だから、よく云って下すったというのよ。これから、何でもあなたの気がついたことはみんな云って頂戴ね。これは本当のお願いよ」
手紙ばかりで暮した年月は、それらの手紙がどんなに正直であったにしろ、整理されたものであるにちがいなかった。その意味では、ひろ子が重吉に示す生活感情も計らぬきれいごととなっているとも思えた。
「わたしは、何でもよそゆきでなく自分があるとおりにするからね。いやだとお思いになることがあったら、どんなにべそをかいてもいいから、云って頂戴。腹の中で、ひろ子というのはこういうんだな、なんかと思わないでね」
「いつか、そう思ったことがあったかい?」
「これまではなかったわ。段々いそがしくおなりになるでしょう? こんな話をゆっくりしていられなくなるのは見えているのよ。ですから、それまでに、痛棒はたっぷりほしいのよ」
「よし。わかった」
ひろ子は、重吉がかけている深い古い肱かけ椅子の足許に足台をひきよせてその上にかけ、鼠がかじった米袋の穴をつくろっていた。小切れを当てて上から縫っている手許を見おろしていた重吉が、
「つぎは、裏からあてるもんだよ」
と云った。いかにも、それだけは確実だ、という云いかたで、ひろ子は思わず笑い出した。
「どうしてそんなこと知っていらっしゃるの」
「和裁工だったんだぜ。ひろ子といえども、裁縫で五円八十銭稼いだことはなかろう」
重吉は、
「僕がやってやろう、見ていてごらん、うまいんだから」
袋をとって、ひっくりかえして、内側からつぎきれを当てて、縫い出した。つかみ針で、左手の拇指と人さし指のはらでおさえた布の方へ針をぶつけてゆくようなぎごちない手つきで、しかし一針一針と縫ってゆく。はじめ笑って見ていた口元がかすかに震えて来て、ひろ子は深
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