気まりわるいような表情で、重吉はことわった。
「大丈夫さ、来なくたって……」
 重吉のことわる気分は、ひろ子につたわった。重吉は、自分の病気について、九年の間、只の一度も信頼出来る診断というものをうけることが出来なかった。刑務所の医者は、思想犯の患者を診るときには、その前にきまって附添の看守に向って念を押した。「どうだ、これは転向しているかね」と。だから重吉は、自分の努力で病勢を納めて来ているものの、本当には拘置所で患《わずら》うようになった結核がどの程度のものなのか、正確に知らないも同然であった。もし余りよくなかったとき、いきなりその場でひろ子までを切なくさせたくない。ひとりでにその不安から重吉はことわるのだろう。
「じゃ、ここで待っているわ、どうぞごゆっくり」
 小柄な吉岡が、白い診察着の裾をひらひらさせ、スリッパアをならして長い廊下を出て行った。早でまわしに上着をぬいでいた重吉が、いくらか靴を曳き気味に、大きい、ゆっくりした歩調でそのわきを行く。
 ひろ子は、研究所の長廊下を段々遠ざかってゆく重吉の後をドアの前に佇んで永いこと見送っていた。
 重吉の、あの歩きつき。一歩一歩と
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