思い出せもしなかった。思い出すのは、却って、省線の巣鴨駅に咲いていた萩の花枝である。省線の電車が、颯《さ》っと風をきって通過したとき、あおりで堤に咲きつらなっていた萩の花房が瞬間大ゆれに揺れて乱れた。病的になっていたひろ子の神経は、その萩の花の大きいゆれをわが魂の大ゆれのようにはっと感じた。自分の哭《な》こうとする心がそこにあらわされたように感じた。
 そういう夜と昼、ひろ子が臥《ね》て、起き出たのが、あの寝台であった。寝台をみると、乾きあがって、心のやり場もなかった四一年の夏がそこにまざまざと泛《うか》び上るのであった。
 寝台を買ったのは三五年の初夏であった。或る早朝、ひろ子がたった一人そのベッドに寝ていた二階の屏風越しに、ソフト帽の頭がのぞいた。それは、ひろ子をつれてゆくために、風呂場の戸をこじあけて侵入した特高の男であった。
 風知草の鉢は、ひろ子が友人にゆずって出たその家の物干で、すっかり乾からび、やがて棄てられたのだが、ひろ子の記憶に刻みつけられているもう一つの風知草があった。その風知草は、小ぢんまりした鉢植で、巣鴨の拘置所の女区第十房の窓の前におかれていた。出来るかぎりぴ
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