「それは、その方がいいわ」
「紹介しておくれ」
 玄関わきの客室に、知人一家は暮している。ひろ子は、そこへ行って、
「昨晩はありがとうございました」
と云った。
「あんなにしてわざわざ来て頂いたりしたときには来なくて、わたしが待ちくたびれて腰ぬけになったら、かえって。――石田です」
 うしろに立っていた重吉を紹介した。重吉は、まだ帰って来た時のままのなりで、嵩《かさ》だかにそこの畳へ手をついて挨拶をした。
「石田です。――どうも永い留守の間はいろいろお世話様になりました」
 それは決して、ただ時間の上で永い留守をしていたという挨拶ではなかった。二度と還ることはなかったかもしれなかった者、生活の外におかれていたものが、今帰った、良人として妻のところへ、社会生活のごたごたの中へ戻って来た、その挨拶であった。戦争の中から、妻のところへ生きてかえることの出来た男たちも、何人か、こういう挨拶のしかたをしたことだろう。わきに膝をついて重吉の挨拶を見ていたひろ子は、のどにせきあげて来て、やっときこえるような声で、
「じゃ、また、のちほど、ね」
 重吉を立たせた。二つの手を独房の畳の上へは決してつか
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