れないけれども――」
 瀬川夫婦の友人に玉井志朗という男があった。大学が同期で、学内運動の先頭に立っていた秀才であり、万事目に立つ男だったのが、つかまった。これ迄、何年間ものがれていたのが不思議であった。つかまって、拘置所に入れられて、少くとも五年か七年帰れまいと本人さえ云っていたのに、急に出た。その男の伯父が、前法相であった。入れかわりに、玉井のぐるりの友人は、一人のこさず被害をうけた。その前、一年半の実刑までを受けて出て来た瀬川は、ただ工場へつとめて、やっとヤスリを使い覚えたというばかりだのに、つかまえられたばかりか予防拘禁所に三年も置かれた。大した理由はなくてお気の毒だ、と云いながら、三年置いた。牧子は瀬川の母、その姉、良人とまるで立場のちがう妹夫婦という錯雑した家族の間で、子供を育てながら精一杯の努力でやりくりして、瀬川の出て来るのを待った。瀬川は、前の冬にかえって、埼玉のそこへ勤めはじめていたのであった。
 そのときも、ひろ子と牧子とは焼跡の通りを並んで歩きながら話していた。
「あなたの苦労は見ているから、いい加減が云えないわ。――でもね、牧子さん、どう? あのいい眼つきをした若い瀬川さんが、俺はもう女房孝行だけして子を育てることにきめたよと云って、段々張がなくなって、じじむさい男になって行くのをうれしがって見ていられること?」
 牧子は、
「――そうねえ」
 心から吐息《といき》をついた。瀬川の生きかたを理解し、瀬川の性格の美しさがわかっていても、くりかえし、くりかえし執拗に生活を破壊されることに牧子は殆ど耐えがたくなって来ていたのであった。
「年末になると、わたし段々おなかが重くなるし、そうすると又暫くお会い出来ないから、きょうこそと思って……」
 牧子は、いかにも心の祝いをあらわすように、
「これをおばちゃんに上げましょうね」
 袋のよこにさし出ていた白い小菊の花束をくれた。
「いいにおい。――うれしいわ、丁度石田がねているから」
「病気がおわるいの?」
「足なのよ。痛くて歩けなくなったの。たださえくたびれるのに、よく方角を間違えて、途方もなく歩いたりするんですもの」
 道が二股にわかれて、一方の草堤に自立会と明瞭に書いて矢じるしをつけた立札が立っていた。ひろ子たちの前の方を、背広の男が一人ゆっくり歩いていた。遠くからその立札に目をつけているのが、うしろつきでわかった。あの人も行くのかしら。そう思って見ていると、その男は立札のところで歩調をゆるめ、自立会という三つの字を改めてとっくりたしかめるように見て、それなり来た道をまっすぐ雑木林の方へおりて行った。
 太いタイアの跡が柔かい土にめりこんでついている。草道はそこから自立会の建物についてうねり、入口の前に通じた。
 建物の横手に大型トラックが来ていて、手拭で頭をくるりと包んだジャムパー姿の若い人が三四人で、トラックの上から床几《しょうぎ》をおろしているところであった。
 床几は、粗末ではあるがどれも真新しく木の香がした。真新しいのは、その床几ばかりでなかった。自立会という建物そのものが、出来たばかりというよりまだ半出来の真新しさで、広い畑から敷地を区切っているあらい竹垣のうちには、ついきのうまでこっぱ[#「こっぱ」に傍点]が散らばり、おが屑が匂っていたような様子がある。思想犯として刑期を終った出獄者を、そのあとまでもかためて住わせて思想善導をしようとして、本願寺が、この建物をこしらえた。国分寺の駅からよっぽど奥へ入った畑と丘の間の隔離された一郭として、これをこしらえた。十月十日、出獄した同志たちは、治安維持法撤廃によって解体する予防拘禁所から、すぐ生活に必要な寝具、日用品、食糧、家具などをトラックにつみこんで、ここへ引越して来た。
 重吉が網走からもってかえって来た人絹の古い風呂敷包みの中には、日の丸のついた石鹸バコ、ライオンはみがきの紙袋、よれよれになった鉄道地図、そして、一まとめに大事にくくった書類が入っていた。その束の中に、一通の電報があった。デタラスグカエレイエノヨウイモアル。同志二人の連名である。丁寧にたたんで使いのこりの封緘《ふうかん》の間にはさまれているその電報を見たとき、ひろ子は、それを監獄で読んだときの重吉の思いを、そのまま、わが胸に感じた。網走へ。宮城へ。この電報はうたれた。その「イエ」は、この自立会のことであった。
 壁が乾きたての小アパートという風なその二階建の建物は、ひろい農地のまんなかにポツンとたって秋日和に照らされている。門と玄関口との間が広場で、その一方に足場をほぐした丸太や板がつみ重ねてあった。それによりかかったりして、十五六人の女のひとたちがかたまっていた。まちまちの服装で、だれもかれも大きい袋持参で子供づれのひとも多い。子
前へ 次へ
全23ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング