いる響を感じたことがあった。そのとき、ひろ子は、その本を手にもって、永い間、その数行の文字を見つめていた。そのときひろ子の胸に湧いた云いつくせない感情は、口で話せるものだろうか。
ひろ子は立ちあがって、書いている重吉の肩へ手をやった。
「――どうした」
「小説をかかして」
ひろ子は重吉のあいている方の手をとった。
「ね、小説がかけるように働かして。――お願いだから……」
亢奮《こうふん》しているひろ子の顔つきを見て、重吉はおかしみをこめた好意の笑顔になった。
「鎮まれ、しずまれ」
ペンをもっている指先で、ひろ子のおでこをまじないのようにぐりぐりした。
「それを云っているのは、俺の方だよ。かんちがえをしないでくれ」
その時分、そろそろ新しい文学の団体も出来かかりはじめていた。十数年前にも一緒に仕事をしていたような評論家、詩人、作家などが、また集って、口かせのはずされた日本の心の声をあげようとしているのであった。
五
ひろ子は、行手の道の上にゆるやかな角度で視線をおとしながら歩いていた。おろしていくらもたたないのに、粗末な下駄は前がわれて、あぶなっかしかった。低い丘の起伏の間をぬっているその道は、土ほこりが深くてぽくぽくのなかにごろた石がどっさりころがっている。左手は、色づきはじめた灌木におおわれた浅い谷間になっていた。
ひろ子の歩きつきに、何となしおとなしいような懇《ねんご》ろなような様子があるのは、下駄がわれかかっているからばかりではなかった。歩いているその道が、よその道路を通る事務的なこころもちとはちがった気持をひろ子にもたせていた。その気持は、ずっと昔、小石川のある道をあるくとき、ひろ子の気分に湧いたものと何処やら似ていた。その道に重吉が住んでいた。ひた向きにその一点しか目ざしていないのに、外からはどこへゆくか一応分らないようにして歩いている。おもしろいその気持に似たところがあり、しかも、この道の上では、おのずとべつのはにかみ[#「はにかみ」に傍点]もあった。その秋、自立会への道と云えば、普通の田舎道ではなかった。自立会を十月十日に解放された共産党員たちの住んでいるところと知っているほどの人々は、そこへゆく道、その道を行き交う人の通りに特別な思いをはらった。配給所へゆくのと同じ心でそこを通る人はなかった。よかれあしかれ、自分の生活と関係のある新しい動力の発源地をそこに感じ、そこの様子を知ろうとして、淋しいガード下から曲って丘をめぐるその一本道へ出た。そこを歩くひろ子は、あんまり行く先がはっきりしているのと、いそいそしている自分があらわなのとを、はにかんでいるのであった。
行手の木立の間に、それらしい新しい建物が見えるところへ来た。すると、左手の草むらのうしろから、
「ひろ子さん」
大きい声で呼ぶ女の声がした。ひろ子は、道の上に立ちどまって見まわした。
「ここです、お待ちしていたの、御弁当をたべながら――」
あわてて立つ拍子にとりまとめた紙包を、まだ胸の前にたくしこみながら、小さい男の子をつれた瀬川牧子が、高い草の間から歩いて出て来た。
「まあ。――どうして? まち伏せ?」
牧子は数年このかた埼玉の町に住んでいて、滅多に会うことも出来なかった。
「思いがけないところから現れたのねえ」
「よかったわ、うまくつかまえられて」
上機嫌で牧子は男の児に、
「純ちゃん、これがおまく[#「おまく」に傍点]のおばちゃんよ、覚えている?」
と云った。三つぐらいの純吉が遊びに来たとき、ひろ子はその子と小さい枕をぶつけ合って遊んだ。それが大変気に入って、おまく[#「おまく」に傍点]のおばちゃんという名をもらったのであった。
「きょう、こちらへいらっしゃるとお友達から又聞きいたしましてね。お家までとてもゆけないし、こっちなら電車が国分寺まで来るから、思い切って出て来たの、よかったわ、お会い出来て」
ほかに通る人のない道を、二人の女は五つの児の足幅にそって歩いて行った。
「元気らしいわね――」
ひろ子は、牧子にはその意味のわかる笑いかたで、
「牧子さんだって、もう元気だわ。ねえ」
と云った。
その初夏、空襲の間に会ったとき、牧子はやつれて不安な眼つきをしていた。埼玉でもその町は安全と云えず、食糧の事情もむずかしかった。牧子の不安は、そういう日常だのに、そこの会社づとめをしている瀬川泰二が、戦争も最後の段階にさしかかっていると云って、しきりに何か考え、牧子の知らない時間をよそで過して夜更けて帰るようになって来た。牧子は、
「もし又あんなことになったら、私たちの生活は今度こそどうなるのかしらと思って……」
野良日にやけて、雀斑《そばかす》が見えるようになった顔を沈痛にふせた。
「瀬川はそれでいいかもし
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